谷川俊太郎の詩集の題名に、
「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」というのがありました。
私は、詩よりもその題名にひかれたことがあります。
さてっと、台所といえば、アガサ・クリスティに
「台所で皿洗いをしているときが、本のプランをたてるのにいちばんよい時間です。」という言葉があるそうなのです。
板坂元著「 発想に智恵 表現の智恵 」の二番目に登場しておりました。
そこで板坂氏はどう説明していたか。
「皿洗いで手を動かしながら、頭の中ではアイデアがふつふつと湧いている状態なのであろう。アイデアを生む秘訣とは、頭を適当に自由にして、適当に刺激を与えるということにあるらしい。たとえば作家のトルーマン・カポーティは、朝起きて何種類かの新聞をくまなく読んで、それでもたりないときは新聞売場に行って立ち読みまでするらしい。そうしながら小説のアイデアを引き出すのだ、と語っている。新聞の中からタネを拾い出すのではなく、新聞を読みながら、頭の外のところで小説のことを考えているのだ。・・・・」
ここから、そういえばと思い浮かぶのは、
与謝野晶子でした。
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)に
「一夜百首の会」の様子が語られておりました。そこを引用。
「新詩社ではその頃、月に一回くらいの割りで、一夜百首の会というのがあったのね。一晩中に百首の短歌を結字でつくる。出来上がったら仮眠をとってもいいというわけだね。一枚の紙の上の方に、たとえば、原、稿、用、紙というように、一字ずつ題が並んでいる。その字を入れて一首ずつつくってゆくんだが、なかなか出来るもんじゃないのよ。・・・・
それが晶子先生となると、ご自宅にいらっしゃるわけでしょう。女中さんなんか置いていらっしゃらないし、その夜の食事はお弁当を取り寄せて、それを皆に運ぶだけにしたところで、お茶を入れて下さったり、いろいろお手数がかかる。小さいお子さんも多いから、その内泣き出したり、おねしょをするのもあるしね。それでいて百首は、もう誰よりも早くつくっておしまいになる。それが皆、いいお歌なんだね。『奥さん、大丈夫なんですか。そんなことなすってて』と誰かが気にして言うと、『ハイ』とそれはもう鈴虫が鳴くような細くておきれいな声でお答えになって、さっさと書いておしまいになるんだ。」(p12~13)
三題噺として引用するなら、もうひとつ(笑)。
大岡信著「百人百句」(講談社)に鈴木真砂女の句が載っておりました。
ちなみに、この本が出た2001年は鈴木さんはまだご健在でした。
選ばれた句は
春寒くこのわた塩に馴染(なじ)みけり 真砂女
さて、大岡氏の説明は
「・・鈴木真砂女の句には料理の素材を扱った句が多い。彼女自身、銀座の一隅で繁盛する小料理屋を経営し、自ら魚河岸まで材料を仕入れに行く生活を長年続けた人だからである。料理では新鮮な素材を客に提供することが大切である。これはいわば、季語の修練の場が、彼女の生活そのものでもあるということである。真砂女は、俳句の季語がもつべき実際的な力、つまり単なる特別の言葉ではなく、季語の一つひとつに生活感がきちんとあるのだということをあらためて思い出させてくれる俳人といってよい。・・・『春寒くこのわた塩に馴染みけり』という句も生活感からきている。『春寒く』という季語が生きてくるのは、『このわた』という、酒飲みにはこたえられない突き出しが、塩に馴染んでいるという感覚がぴったりくるからである。・・・」(p74)
そういえば、どなたかの随筆に、この繁盛する小料理屋で、俳句会をすると、つねに料理を運ぶ真砂女の姿があったのだそうです。そのなかでの句会を、あれやこれやと思い描くのでした。
う~ん。このようにして、
板坂元著「 発想の智恵 表現の智恵 」から
発想を学ぶことは多そうなのでした。
発想と表現のテキストを、
こうして、反芻しながら、たのしむよろこび。
「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」というのがありました。
私は、詩よりもその題名にひかれたことがあります。
さてっと、台所といえば、アガサ・クリスティに
「台所で皿洗いをしているときが、本のプランをたてるのにいちばんよい時間です。」という言葉があるそうなのです。
板坂元著「 発想に智恵 表現の智恵 」の二番目に登場しておりました。
そこで板坂氏はどう説明していたか。
「皿洗いで手を動かしながら、頭の中ではアイデアがふつふつと湧いている状態なのであろう。アイデアを生む秘訣とは、頭を適当に自由にして、適当に刺激を与えるということにあるらしい。たとえば作家のトルーマン・カポーティは、朝起きて何種類かの新聞をくまなく読んで、それでもたりないときは新聞売場に行って立ち読みまでするらしい。そうしながら小説のアイデアを引き出すのだ、と語っている。新聞の中からタネを拾い出すのではなく、新聞を読みながら、頭の外のところで小説のことを考えているのだ。・・・・」
ここから、そういえばと思い浮かぶのは、
与謝野晶子でした。
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)に
「一夜百首の会」の様子が語られておりました。そこを引用。
「新詩社ではその頃、月に一回くらいの割りで、一夜百首の会というのがあったのね。一晩中に百首の短歌を結字でつくる。出来上がったら仮眠をとってもいいというわけだね。一枚の紙の上の方に、たとえば、原、稿、用、紙というように、一字ずつ題が並んでいる。その字を入れて一首ずつつくってゆくんだが、なかなか出来るもんじゃないのよ。・・・・
それが晶子先生となると、ご自宅にいらっしゃるわけでしょう。女中さんなんか置いていらっしゃらないし、その夜の食事はお弁当を取り寄せて、それを皆に運ぶだけにしたところで、お茶を入れて下さったり、いろいろお手数がかかる。小さいお子さんも多いから、その内泣き出したり、おねしょをするのもあるしね。それでいて百首は、もう誰よりも早くつくっておしまいになる。それが皆、いいお歌なんだね。『奥さん、大丈夫なんですか。そんなことなすってて』と誰かが気にして言うと、『ハイ』とそれはもう鈴虫が鳴くような細くておきれいな声でお答えになって、さっさと書いておしまいになるんだ。」(p12~13)
三題噺として引用するなら、もうひとつ(笑)。
大岡信著「百人百句」(講談社)に鈴木真砂女の句が載っておりました。
ちなみに、この本が出た2001年は鈴木さんはまだご健在でした。
選ばれた句は
春寒くこのわた塩に馴染(なじ)みけり 真砂女
さて、大岡氏の説明は
「・・鈴木真砂女の句には料理の素材を扱った句が多い。彼女自身、銀座の一隅で繁盛する小料理屋を経営し、自ら魚河岸まで材料を仕入れに行く生活を長年続けた人だからである。料理では新鮮な素材を客に提供することが大切である。これはいわば、季語の修練の場が、彼女の生活そのものでもあるということである。真砂女は、俳句の季語がもつべき実際的な力、つまり単なる特別の言葉ではなく、季語の一つひとつに生活感がきちんとあるのだということをあらためて思い出させてくれる俳人といってよい。・・・『春寒くこのわた塩に馴染みけり』という句も生活感からきている。『春寒く』という季語が生きてくるのは、『このわた』という、酒飲みにはこたえられない突き出しが、塩に馴染んでいるという感覚がぴったりくるからである。・・・」(p74)
そういえば、どなたかの随筆に、この繁盛する小料理屋で、俳句会をすると、つねに料理を運ぶ真砂女の姿があったのだそうです。そのなかでの句会を、あれやこれやと思い描くのでした。
う~ん。このようにして、
板坂元著「 発想の智恵 表現の智恵 」から
発想を学ぶことは多そうなのでした。
発想と表現のテキストを、
こうして、反芻しながら、たのしむよろこび。