堀口大學の詩「お目あて」に
―― 現代詩?
―― 小さい! 小さい!
僕の狙いは
永遠の詩ですよ
というのが、あります。
永遠。
せめて、現代よりも古典のほうが、永遠にすこし近いかも。
山口仲美の「日本語の古典」をパラパラめくって、
手ごたえがあったので、同じ岩波新書の
山口仲美著「日本語の歴史」を古本で注文。
まあ、それはそれとして、
「日本語の古典」のプロローグはこう始まります。
「日本の古典は、今や瀕死状態。
現代人にほとんど顧みられない状況をみると、
『もったいない』という気持ちが
むくむくとわきあがってきます。
自分たちの祖先の培ってきたさまざまな英知を
なぜ現代人は学び、吸収しようとしないのか?
過去から学ぶ物は何もないと思えるほど、
私たちは優れているのか?
・・・・・・・・・・・・・・」
う~ん。永遠などいらない時代なのでしょうか。
そういえば、田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)
のあとがきで
「古い遠祖たちの心を受け継ぐ、というのは、
かたちにあらわすと古典を愛し尊び、親昵する、
というのもその一つではなかろうか。
現代の若者には古典アレルギーが多い。
漢字制限が行なわれ、
漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、
古典にも、うとうとしくなってゆくのは当然かもしれない
・・・・・・・
そして私の感触でいえば、人々の古典へのあこがれの地熱は、
想像以上に熱いものがあるようだ。
ほんの少しの手引き、あと押しがあれば。
・・・古典はまだこの国の人々の心から消えていないと、
信ずるに足る証拠を、私は得た。
人の心が古典を愛することで柔らかく(なめ)されれば、
日本の四季や自然の風物の、愛すべく貴(たつと)むべきを
知るようにもなるはず。」(平成11(1999)年卯月)
「あこがれの地熱」を、私もせめてすこしだけでも。
ということで、現代詩はもういいや。
―― 現代詩?
―― 小さい! 小さい!
僕の狙いは
永遠の詩ですよ
というのが、あります。
永遠。
せめて、現代よりも古典のほうが、永遠にすこし近いかも。
山口仲美の「日本語の古典」をパラパラめくって、
手ごたえがあったので、同じ岩波新書の
山口仲美著「日本語の歴史」を古本で注文。
まあ、それはそれとして、
「日本語の古典」のプロローグはこう始まります。
「日本の古典は、今や瀕死状態。
現代人にほとんど顧みられない状況をみると、
『もったいない』という気持ちが
むくむくとわきあがってきます。
自分たちの祖先の培ってきたさまざまな英知を
なぜ現代人は学び、吸収しようとしないのか?
過去から学ぶ物は何もないと思えるほど、
私たちは優れているのか?
・・・・・・・・・・・・・・」
う~ん。永遠などいらない時代なのでしょうか。
そういえば、田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)
のあとがきで
「古い遠祖たちの心を受け継ぐ、というのは、
かたちにあらわすと古典を愛し尊び、親昵する、
というのもその一つではなかろうか。
現代の若者には古典アレルギーが多い。
漢字制限が行なわれ、
漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、
古典にも、うとうとしくなってゆくのは当然かもしれない
・・・・・・・
そして私の感触でいえば、人々の古典へのあこがれの地熱は、
想像以上に熱いものがあるようだ。
ほんの少しの手引き、あと押しがあれば。
・・・古典はまだこの国の人々の心から消えていないと、
信ずるに足る証拠を、私は得た。
人の心が古典を愛することで柔らかく(なめ)されれば、
日本の四季や自然の風物の、愛すべく貴(たつと)むべきを
知るようにもなるはず。」(平成11(1999)年卯月)
「あこがれの地熱」を、私もせめてすこしだけでも。
ということで、現代詩はもういいや。