ブログ「書迷博客」で、私が好きなのは週一回の書き込まれる「今週買った本」。毎週気になりながら見ております(笑)。
さてっと、「かな」について、あれこれ気になりだしたので
思い浮かぶ箇所を列挙していきたのですが、
まずはじめに、「書迷博客」の2月6日「今週買った本」から
引用させて頂きます。
「・・かなについての本を探すとなると、まず藝術の棚で書道のコーナーをさがし、かなの成り立ちについてならば言語のコーナーを見なければならない。また、それがどのように定着、普及したのかを調べるには教育の棚の教育史である。また、たとえば新古今和歌集を活字ではなく、手書きの文字で読もうと思えば古典文学のコーナーで探すことになる。ほかにも考古学、歴史学に関わる部分もあって、図書館のあちこちをうろつく。これは新刊書店であっても同様だ。
かなは分野を横断しているということだが、言葉をかえれば、ジャンルがはっきりしないということでもある。とりわけ言語の棚では文字については圧倒的に漢字に関する本が多くて、かなについてはわずかしかない。それでかえって調べる側にも俄然やる気が出てくるのだが。」
さてっと、つぎは順不同で
半藤一利さんは鼎談で、こう語っておりました。
「・・・日本人の場合、江戸時代以前に書かれたものは、手紙でも日記でも草書体だからいまはなかなか読めないし、私じゃ歯が立たない。・・歴史は史料に基づくものなのに、結局は私たちは活字でしかそれを読めず、活字になる史料は時の支配者にとって手前(てめえ)に都合のいいものでしかない。敗者側の史料は容易に活字にならないし、草書の文字の裏側に大事なものが潜んでいても、お手上げです。これからは草書体はますます読めなくなるわけで、日本人は公正な歴史というものからどんどん離れていくんじゃないか。これは最近『幕末史』に取り組んだ時、官軍でない方の史料を懸命に読もうとして感じたことです。」
つぎに、池澤夏樹編「本は、これから」(岩波新書)に登場している、中野三敏氏の文を引用。中野氏は「和本リテラシー」という言葉をつかっておりました(ちなみに、ブログ「読書で日暮らし」では、池澤夏樹編「本は、これから」のなかでは、内田樹・紀田順一郎・中野三敏・松岡正剛の4氏の文をお薦めしております)。
「・・・木版本、及び写本類である。これが過去千二百年の間に積み上げられた日本人の経験と思弁の総体であることは言うまでもないが、そう総数・・・大方、百万点を超すと考えて誤るまい。・・本当の問題は、誰がそれを読むのかという所にある。
知っての通り、この書物群は、楷書体の漢文著作以外はすべて、変体仮名と草書体漢字、即ち『くずし字』によって記されている。出版物が現在のような仮名字体に定められたのは、明治33年に、一音節を一文字に限定した小学校令が施行されて以来のことで、よほど特殊なものでない限り、活字体の漢字と右の仮名文字で記され、くずし字は手書きの場合のみとなった。それでも昭和戦前までの教育を受けた人には、自然とその能力(これを私は「和本リテラシー」と呼ぶ)は残っていたが、決定的にそれを失ったのは戦後のことなので、せいぜい65年ほどにしかならないのに、今や大学院を出た人でも、国文・国語・国史といった学科の、それも近世以前を専攻する人のみが辛うじて具えるのみで、それ以外は壊滅状態といえる。むろん字体を限定したことによるメリットの大きさは十分わかるが、そのデメリットに関してはほとんど一顧だに与えられなかったのではないか。
・・これはまた確認できないが、和本リテラシーをもつ人の総数は、前述の専攻に因んだ研究者とその卵を数えあげたとしても、おそらく三千人を少し越えるほどの数であろう。日本人の0.003%にしかならない。そこで、既に活字化された書物だけでもということになれば、その総数は歴史・芸術・思想・社会・文芸、ともかくあらゆる領域を総ざらいしてみても、おそらく一万点には及ぶまい。総数を百万点として、わずか1%にしかならないのである。
日本の知識人で古典は必要ないと言いきれる人はおそらくあるまい。そして、そうした人達はおそらく、必要な古典はほとんど活字化されているにちがいないと思いこんでいるのではないか。しかしそれ以外の活字化されないものは読めないとなれば、実際の所、日本の知識人の大半は、先人の知的遺産のわずか1%しか利用していないことになる。これほどもったいないことがほかにあろうか。」(p170~172)
まだ続くのですが、これくらいで、つぎにいきます。
そういえば、中野三敏著「古文書入門 くずし字で『百人一首』をたのしむ」(角川学芸出版)の帯をロバート・キャンベル氏が書いておりました。
「くずし字が読めれば、もっと楽しくなる! 文字を忘れた日本人よ、江戸の理解は平仮名から。」
つぎいきましょう。
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP研究所)に草仮名・読解法がありました(p134~135)。そこも大半引用します。
「私は江戸文学を専攻していたので、卒論を書くに当たって、まず草仮名を読むことから始めた。私が学生のころは、手引書など全くないため、いきなり元禄ごろの文献を筆写することにした。平均的日本人なら三週間前後で一応の基礎ができるはずだ。方法は簡単だ。まず、草仮名の表を手に入れる。これを手掛かりに、江戸時代の板本を読む。私は井原西鶴の好色本などをよく読んだ。内容に興味があるから、集中度が高くなる。
こうして基礎ができると、運転免許のとりたてのように、やたらに実力を発揮したくなる時期がくる。掛け軸もよし、自分に関係のある文書でもかまわない。とにかく頭を突っ込んで力をつけていけばよい。要領は、ただ読むだけでなく鉛筆で紙に写すという写字作業をすることだ。はじめは読めない箇所が多いけれども、だんだんパズル解きのように空欄が埋まってくる。つぎに、浮世絵に出てくる字だとか、芭蕉の短冊写真だとか、読みやすいもので鑑賞にたえるものを取り上げて集中していくことだ。俳句なり書画なり、何でもよいから字を読むこと以外の目的を立てて、字を読む練習をしなければ、上達は途中で止まってしまう。・・・・」
そういえば、ブログ書迷博客では、板倉聖宣著「変体仮名とその覚え方」(仮説社)もとりあげておりました。私はですね。まずは「くずし字で『百人一首』を楽しむ」を読みこなすぞ。
さてっと、「かな」について、あれこれ気になりだしたので
思い浮かぶ箇所を列挙していきたのですが、
まずはじめに、「書迷博客」の2月6日「今週買った本」から
引用させて頂きます。
「・・かなについての本を探すとなると、まず藝術の棚で書道のコーナーをさがし、かなの成り立ちについてならば言語のコーナーを見なければならない。また、それがどのように定着、普及したのかを調べるには教育の棚の教育史である。また、たとえば新古今和歌集を活字ではなく、手書きの文字で読もうと思えば古典文学のコーナーで探すことになる。ほかにも考古学、歴史学に関わる部分もあって、図書館のあちこちをうろつく。これは新刊書店であっても同様だ。
かなは分野を横断しているということだが、言葉をかえれば、ジャンルがはっきりしないということでもある。とりわけ言語の棚では文字については圧倒的に漢字に関する本が多くて、かなについてはわずかしかない。それでかえって調べる側にも俄然やる気が出てくるのだが。」
さてっと、つぎは順不同で
半藤一利さんは鼎談で、こう語っておりました。
「・・・日本人の場合、江戸時代以前に書かれたものは、手紙でも日記でも草書体だからいまはなかなか読めないし、私じゃ歯が立たない。・・歴史は史料に基づくものなのに、結局は私たちは活字でしかそれを読めず、活字になる史料は時の支配者にとって手前(てめえ)に都合のいいものでしかない。敗者側の史料は容易に活字にならないし、草書の文字の裏側に大事なものが潜んでいても、お手上げです。これからは草書体はますます読めなくなるわけで、日本人は公正な歴史というものからどんどん離れていくんじゃないか。これは最近『幕末史』に取り組んだ時、官軍でない方の史料を懸命に読もうとして感じたことです。」
つぎに、池澤夏樹編「本は、これから」(岩波新書)に登場している、中野三敏氏の文を引用。中野氏は「和本リテラシー」という言葉をつかっておりました(ちなみに、ブログ「読書で日暮らし」では、池澤夏樹編「本は、これから」のなかでは、内田樹・紀田順一郎・中野三敏・松岡正剛の4氏の文をお薦めしております)。
「・・・木版本、及び写本類である。これが過去千二百年の間に積み上げられた日本人の経験と思弁の総体であることは言うまでもないが、そう総数・・・大方、百万点を超すと考えて誤るまい。・・本当の問題は、誰がそれを読むのかという所にある。
知っての通り、この書物群は、楷書体の漢文著作以外はすべて、変体仮名と草書体漢字、即ち『くずし字』によって記されている。出版物が現在のような仮名字体に定められたのは、明治33年に、一音節を一文字に限定した小学校令が施行されて以来のことで、よほど特殊なものでない限り、活字体の漢字と右の仮名文字で記され、くずし字は手書きの場合のみとなった。それでも昭和戦前までの教育を受けた人には、自然とその能力(これを私は「和本リテラシー」と呼ぶ)は残っていたが、決定的にそれを失ったのは戦後のことなので、せいぜい65年ほどにしかならないのに、今や大学院を出た人でも、国文・国語・国史といった学科の、それも近世以前を専攻する人のみが辛うじて具えるのみで、それ以外は壊滅状態といえる。むろん字体を限定したことによるメリットの大きさは十分わかるが、そのデメリットに関してはほとんど一顧だに与えられなかったのではないか。
・・これはまた確認できないが、和本リテラシーをもつ人の総数は、前述の専攻に因んだ研究者とその卵を数えあげたとしても、おそらく三千人を少し越えるほどの数であろう。日本人の0.003%にしかならない。そこで、既に活字化された書物だけでもということになれば、その総数は歴史・芸術・思想・社会・文芸、ともかくあらゆる領域を総ざらいしてみても、おそらく一万点には及ぶまい。総数を百万点として、わずか1%にしかならないのである。
日本の知識人で古典は必要ないと言いきれる人はおそらくあるまい。そして、そうした人達はおそらく、必要な古典はほとんど活字化されているにちがいないと思いこんでいるのではないか。しかしそれ以外の活字化されないものは読めないとなれば、実際の所、日本の知識人の大半は、先人の知的遺産のわずか1%しか利用していないことになる。これほどもったいないことがほかにあろうか。」(p170~172)
まだ続くのですが、これくらいで、つぎにいきます。
そういえば、中野三敏著「古文書入門 くずし字で『百人一首』をたのしむ」(角川学芸出版)の帯をロバート・キャンベル氏が書いておりました。
「くずし字が読めれば、もっと楽しくなる! 文字を忘れた日本人よ、江戸の理解は平仮名から。」
つぎいきましょう。
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP研究所)に草仮名・読解法がありました(p134~135)。そこも大半引用します。
「私は江戸文学を専攻していたので、卒論を書くに当たって、まず草仮名を読むことから始めた。私が学生のころは、手引書など全くないため、いきなり元禄ごろの文献を筆写することにした。平均的日本人なら三週間前後で一応の基礎ができるはずだ。方法は簡単だ。まず、草仮名の表を手に入れる。これを手掛かりに、江戸時代の板本を読む。私は井原西鶴の好色本などをよく読んだ。内容に興味があるから、集中度が高くなる。
こうして基礎ができると、運転免許のとりたてのように、やたらに実力を発揮したくなる時期がくる。掛け軸もよし、自分に関係のある文書でもかまわない。とにかく頭を突っ込んで力をつけていけばよい。要領は、ただ読むだけでなく鉛筆で紙に写すという写字作業をすることだ。はじめは読めない箇所が多いけれども、だんだんパズル解きのように空欄が埋まってくる。つぎに、浮世絵に出てくる字だとか、芭蕉の短冊写真だとか、読みやすいもので鑑賞にたえるものを取り上げて集中していくことだ。俳句なり書画なり、何でもよいから字を読むこと以外の目的を立てて、字を読む練習をしなければ、上達は途中で止まってしまう。・・・・」
そういえば、ブログ書迷博客では、板倉聖宣著「変体仮名とその覚え方」(仮説社)もとりあげておりました。私はですね。まずは「くずし字で『百人一首』を楽しむ」を読みこなすぞ。