関容子著「日本の鶯」について、書いておきます。
この本には堀口大學氏の「序」があります。
そこには、聞き書きは、月々の雑誌連載で15回。
連載を終了したのが昭和54年7月。
ちなみに、その昭和54(1979)年は堀口大學87歳。
2年後の昭和56(1981年)3月に、89歳で堀口氏は亡くなっております。
詩集「消えがての虹」(昭和53年)の「あとがき」にはこうあります。
「・・・昭和50年秋口以来、今日までに成った詩のうち、47篇を蒐めてこの集『消えがての虹』を編んでみました。昭和45年3月、筑摩書房発行の大冊『堀口大學全詩集』の後、同46年8月、同書房発行の『月かげの虹』、同49年12月、吾八プレスの『沖に立つ虹』、51年5月彌生書房からの『東天の虹』と、矢つぎ早に詩の集をお目にかけてきましたが、以前にはなかったこのあわただしさの理由は到って簡単、それまで久しく米塩の資としてはげんで来た翻訳の仕事に、年々365日のうち、360日をふり向け、残る5日ばかりを詩作に充てて来た半世紀不変のプログラムを、10年ほど前、思うところがあって、米塩の食をあきらめ、かすみを食(くら)って生きるのが運命(さだめ)の、詩生の本然に立ちかえり、年々365日のうち、360日を詩作に充て、残る5日を翻訳の業にふり向けるという、どんでん返しを実行に移したその結果が、以前には見られなかった、詩の量産をもたらしたという次第です。
粗製と濫造のご批判は、読者諸賢にお任せすると致し、当の僕としては、命の続く限りなお暫く、かすみを食(くら)って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい所存でおります。・・・」
そうすると、
関容子さんが聞書きをする連載の「日本の鶯」の時期は
ちょうど、堀口氏が
「命の続く限りなお暫く、かすみを食って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい」と書いたころと重なるようにして連載がはじまっていたことになります。
それなら、この丸谷才一氏が名づけたという題名の「日本の鶯」について、
私があらためて書いておくのも、まんざら無駄ではなさそうな気がしてきました。
さて、マリー・ローランサンの詩の訳「日本の鶯」は
「新編月下の一群」に入っているようです。それが1928年。
この年は堀口大學36歳。
その36歳の堀口訳「日本の鶯」は、こうでした。
彼は御飯を食べる
彼は歌を歌ふ
彼は鳥です
彼は勝手な気まぐれから
わざとさびしい歌を歌ふ
それでは、87歳の堀口訳「日本の鶯」はというと、
この鶯 餌(えさ)はお米です
歌好きは生れつきです
でもやはり小鳥です
わがままな気紛れから
わざとさびしく歌います
この87歳での新訳は、第9章「子供のときから作文が得意」に出てきます。
ちなみに、この新訳のすこし前の語りも、引用するに足りるのでした。
「 『しかし口語にせよ、文語にせよ、文学の楽しさはやはり文章の張りにあると思うのですけれど、近頃のものはどうも・・・』と少しお淋しそうに、ちょっぴり現代文学批判をなさった。
――― 僕は鶯が好きでね。ここ(葉山)でも近くの山から下りて来るのか、毎年12月に入るともう、チッチッという笹鳴きの声が聞こえますが、これが遅くとも2月までには高音を張ってアリアを歌い始めますよ。僕のベッドの枕に近いところに、お隣りの珊瑚樹の生垣があって、毎朝そこが鶯の第一声らしいのだが、葉山の人は朝が遅いから、これは僕のための優雅な目ざましという気がして仕方ない。王侯貴族になったようなぜいたくな気分ですよ。そこで、いつかの話に出たローランサンの『日本の鶯』ね。気になったので訳し直しました。・・・どう?昔は、字句にしがみついて、『この鶯 餌はお米・・・』と、上下をひっくり返すことを考えつかなかったのね。『彼は御飯を食べる・・・』なんて、そのまま訳していたわけだからね。」(岩波現代文庫・p216~218)
関容子著「日本の鶯」は、まだまだ読み足りないのですが、
そろそろ、本棚にしまう頃だろうなあ。
とりあえず、私の読書印象の賞味期限はこのくらい。
あ。そうそう。まだ長谷川郁夫著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)を読んでおりません(笑)。
さてっと、
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP)に
こんな箇所あり。
「気が多いほうなので、私は普通の人より余計に本を買うのだが、買った本の中で、実際何か書くとき利用するのは10冊に1冊ぐらいしかない。よくいって2冊どまりだ。だからといって、使えるほうの1冊ばかりねらって本を買えばいいというわけではない。本というものは、買って手許に置いてみないと、使えるか使えないかわからないものだ。使える1冊を見出すまでには、およそ10冊の本を読む必要があるわけだ。・・・・」(p119)
ここに、「買って手許に置いてみないと」なんて、言葉があると困るんだよなあ。
ついつい買ってしまいたくなる。10冊も私は読まないのは分かっている癖して。
この本には堀口大學氏の「序」があります。
そこには、聞き書きは、月々の雑誌連載で15回。
連載を終了したのが昭和54年7月。
ちなみに、その昭和54(1979)年は堀口大學87歳。
2年後の昭和56(1981年)3月に、89歳で堀口氏は亡くなっております。
詩集「消えがての虹」(昭和53年)の「あとがき」にはこうあります。
「・・・昭和50年秋口以来、今日までに成った詩のうち、47篇を蒐めてこの集『消えがての虹』を編んでみました。昭和45年3月、筑摩書房発行の大冊『堀口大學全詩集』の後、同46年8月、同書房発行の『月かげの虹』、同49年12月、吾八プレスの『沖に立つ虹』、51年5月彌生書房からの『東天の虹』と、矢つぎ早に詩の集をお目にかけてきましたが、以前にはなかったこのあわただしさの理由は到って簡単、それまで久しく米塩の資としてはげんで来た翻訳の仕事に、年々365日のうち、360日をふり向け、残る5日ばかりを詩作に充てて来た半世紀不変のプログラムを、10年ほど前、思うところがあって、米塩の食をあきらめ、かすみを食(くら)って生きるのが運命(さだめ)の、詩生の本然に立ちかえり、年々365日のうち、360日を詩作に充て、残る5日を翻訳の業にふり向けるという、どんでん返しを実行に移したその結果が、以前には見られなかった、詩の量産をもたらしたという次第です。
粗製と濫造のご批判は、読者諸賢にお任せすると致し、当の僕としては、命の続く限りなお暫く、かすみを食(くら)って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい所存でおります。・・・」
そうすると、
関容子さんが聞書きをする連載の「日本の鶯」の時期は
ちょうど、堀口氏が
「命の続く限りなお暫く、かすみを食って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい」と書いたころと重なるようにして連載がはじまっていたことになります。
それなら、この丸谷才一氏が名づけたという題名の「日本の鶯」について、
私があらためて書いておくのも、まんざら無駄ではなさそうな気がしてきました。
さて、マリー・ローランサンの詩の訳「日本の鶯」は
「新編月下の一群」に入っているようです。それが1928年。
この年は堀口大學36歳。
その36歳の堀口訳「日本の鶯」は、こうでした。
彼は御飯を食べる
彼は歌を歌ふ
彼は鳥です
彼は勝手な気まぐれから
わざとさびしい歌を歌ふ
それでは、87歳の堀口訳「日本の鶯」はというと、
この鶯 餌(えさ)はお米です
歌好きは生れつきです
でもやはり小鳥です
わがままな気紛れから
わざとさびしく歌います
この87歳での新訳は、第9章「子供のときから作文が得意」に出てきます。
ちなみに、この新訳のすこし前の語りも、引用するに足りるのでした。
「 『しかし口語にせよ、文語にせよ、文学の楽しさはやはり文章の張りにあると思うのですけれど、近頃のものはどうも・・・』と少しお淋しそうに、ちょっぴり現代文学批判をなさった。
――― 僕は鶯が好きでね。ここ(葉山)でも近くの山から下りて来るのか、毎年12月に入るともう、チッチッという笹鳴きの声が聞こえますが、これが遅くとも2月までには高音を張ってアリアを歌い始めますよ。僕のベッドの枕に近いところに、お隣りの珊瑚樹の生垣があって、毎朝そこが鶯の第一声らしいのだが、葉山の人は朝が遅いから、これは僕のための優雅な目ざましという気がして仕方ない。王侯貴族になったようなぜいたくな気分ですよ。そこで、いつかの話に出たローランサンの『日本の鶯』ね。気になったので訳し直しました。・・・どう?昔は、字句にしがみついて、『この鶯 餌はお米・・・』と、上下をひっくり返すことを考えつかなかったのね。『彼は御飯を食べる・・・』なんて、そのまま訳していたわけだからね。」(岩波現代文庫・p216~218)
関容子著「日本の鶯」は、まだまだ読み足りないのですが、
そろそろ、本棚にしまう頃だろうなあ。
とりあえず、私の読書印象の賞味期限はこのくらい。
あ。そうそう。まだ長谷川郁夫著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)を読んでおりません(笑)。
さてっと、
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP)に
こんな箇所あり。
「気が多いほうなので、私は普通の人より余計に本を買うのだが、買った本の中で、実際何か書くとき利用するのは10冊に1冊ぐらいしかない。よくいって2冊どまりだ。だからといって、使えるほうの1冊ばかりねらって本を買えばいいというわけではない。本というものは、買って手許に置いてみないと、使えるか使えないかわからないものだ。使える1冊を見出すまでには、およそ10冊の本を読む必要があるわけだ。・・・・」(p119)
ここに、「買って手許に置いてみないと」なんて、言葉があると困るんだよなあ。
ついつい買ってしまいたくなる。10冊も私は読まないのは分かっている癖して。