BK1の書評で「銀の皿」さんが津野海太郎著「電子本をバカにするなかれ 書物史の第三革命」(国書刊行会・¥1890)を紹介されておりました。そこで引用されていた箇所に「紙の書籍に背負わされた重たいものを、少しずつ電子書籍が肩代わりすればいい」というのがあるのだそうです(興味深い本ですが、私は買わないぞ)。
さてっと、話題をかえて「紙の書籍」といえば、紙へと連想がひろがります。橘曙覧に「紙漉」と題した歌が7首あり、一読印象に残っております。
そのことについて、
「橘曙覧は、文化九年(1812)五月、越前福井城下の石場町(福井市つくも一丁目)に生まれた。父は正玄(正源)五郎右衛門(1783-1826)。紙筆墨商を営むと共に、家伝薬巨朱子円製造販売の老舗の主でもあった。・・・」(岩波文庫「橘曙覧全歌集」解説)
この箇所を窪田空穂の文に、たどってみると、
「福井では豪族としての名声を保って来て、商家ではあったが藩主から特別の扱ひを受けていたという。又、彼の父という人は商才に富んでいて、紙商といはれていたという。この人は長男曙覧の15歳の時に没したので、彼は家を継いで家長となったという。彼は幼少の時母に死別して、家には以前から継母があり、継母にも男児があって同居していたという。彼は結婚すべき年齢となって、妻を迎へ、子も挙げていたという。そういう位地にいた彼が、35歳の時、家を異腹の弟に譲り、自分は妻子を伴って、身に付ける物もなく別居したというのである。身に付ける物云々は、委しくは分からないが、彼のその後の歌に赤貧を侘びているものがあり、又、妻の生家の者が、妻に離縁を勧めたことが伝記にあるところからも察しられる。・・・」(p435「全集」第十巻)
ここでは、橘曙覧の生家は、紙商をしていたのを確認できます。
つまり、「紙」は曙覧にとってごく身近な空気のような、よく知る世界だったのでしょう。
ここから、あらためて「紙漉」と題した曙覧の歌を、そのまま引用しておきます。
家家に 谷川引きて 水湛へ 歌うたひつつ 少女(をとめ)紙すく
水に手を 冬も打ちひたし 漉きたてて 紙の白雪 窓高く積む
紙買ひに 来る人おほし さねかづら 這ひまとはれる 垣をしるべに
居ならびて 紙漉くをとめ 見ほしがり 垣間見するは 里の男の子か
黄昏に 咲く花の色も 紙を干す 板のしろさに まけて見えつつ
鳴きたつる 蝉にまじりて 草たたく 音きかするや 紙すきの小屋
流れくる 岩間の水に 浸しおきて 打ち敲く草の 紙になるとぞ
曙覧の身近によく知る世界が、四季を通してポッと中空に浮かんででもいるかのように歌われている。そんな味わい。う~ん。この歌を読んでいると「紙漉」を背景にして、曙覧とごく自然にすれ違っているような、そんな気分になってきます。
さてっと、話題をかえて「紙の書籍」といえば、紙へと連想がひろがります。橘曙覧に「紙漉」と題した歌が7首あり、一読印象に残っております。
そのことについて、
「橘曙覧は、文化九年(1812)五月、越前福井城下の石場町(福井市つくも一丁目)に生まれた。父は正玄(正源)五郎右衛門(1783-1826)。紙筆墨商を営むと共に、家伝薬巨朱子円製造販売の老舗の主でもあった。・・・」(岩波文庫「橘曙覧全歌集」解説)
この箇所を窪田空穂の文に、たどってみると、
「福井では豪族としての名声を保って来て、商家ではあったが藩主から特別の扱ひを受けていたという。又、彼の父という人は商才に富んでいて、紙商といはれていたという。この人は長男曙覧の15歳の時に没したので、彼は家を継いで家長となったという。彼は幼少の時母に死別して、家には以前から継母があり、継母にも男児があって同居していたという。彼は結婚すべき年齢となって、妻を迎へ、子も挙げていたという。そういう位地にいた彼が、35歳の時、家を異腹の弟に譲り、自分は妻子を伴って、身に付ける物もなく別居したというのである。身に付ける物云々は、委しくは分からないが、彼のその後の歌に赤貧を侘びているものがあり、又、妻の生家の者が、妻に離縁を勧めたことが伝記にあるところからも察しられる。・・・」(p435「全集」第十巻)
ここでは、橘曙覧の生家は、紙商をしていたのを確認できます。
つまり、「紙」は曙覧にとってごく身近な空気のような、よく知る世界だったのでしょう。
ここから、あらためて「紙漉」と題した曙覧の歌を、そのまま引用しておきます。
家家に 谷川引きて 水湛へ 歌うたひつつ 少女(をとめ)紙すく
水に手を 冬も打ちひたし 漉きたてて 紙の白雪 窓高く積む
紙買ひに 来る人おほし さねかづら 這ひまとはれる 垣をしるべに
居ならびて 紙漉くをとめ 見ほしがり 垣間見するは 里の男の子か
黄昏に 咲く花の色も 紙を干す 板のしろさに まけて見えつつ
鳴きたつる 蝉にまじりて 草たたく 音きかするや 紙すきの小屋
流れくる 岩間の水に 浸しおきて 打ち敲く草の 紙になるとぞ
曙覧の身近によく知る世界が、四季を通してポッと中空に浮かんででもいるかのように歌われている。そんな味わい。う~ん。この歌を読んでいると「紙漉」を背景にして、曙覧とごく自然にすれ違っているような、そんな気分になってきます。