和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

堀口ファン。

2011-02-05 | 短文紹介
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を、読んでたのしかった。
このたのしさを、他の方はどう語っておられるか。それをたどるのも、これまた楽しみ。

ということで、以前にでた講談社文庫の「日本の鶯」を、古本で注文。
それが届きました。講談社文庫での解説は河盛好蔵氏。
それは、堀口大學氏のお通夜の晩のことから、書き出されておりました。
そして、「日本の鶯」を遅まきながら読んでの感想が以下に語られておりました。

「・・有り難いことに関さんは早速この本を送って下さったので、遅まきながら、私も愛読者の仲間に加わることができ、たくさんのことを教えられるのみならず、私自身の堀口論のなかでもしばしば引用させて頂いた。全く『日本の鶯』は堀口大學を研究し、理解するための世にも貴重なモノグラフィーであって、これだけ行き届いた聞書きをよくぞ作って置いて下さったと、私たち堀口ファンは心から感謝している。・・・多年堀口先生の人と作品に親炙してきた者の一人として、この本を読みながら、目からウロコの落ちる思いをしたことが少なくない・・」

もう一箇所。

「この聞書きは一ヵ月一回の割りで、それが十五回も続くという、聞く人にも、更にそれ以上答える人に努力と忍耐を要求する気の重い仕事であるが、回を重ねるに従って、両者の息が次第に合ってくるのは読者にもよく分かり、思わず話のなかに、こちらも割り込んでゆきたくなるのは、本書のこの上もない魅力になっている。」

六ページほどの河盛好蔵氏の解説を読めてよかった(笑)。

さてっと、あとは

  「丸谷才一批評集第五巻 同時代の作家たち」(文藝春秋)
   丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社)
  「河盛好蔵 私の随想選 第五巻 私の日本文学Ⅱ」(新潮社)

に、堀口大學が読めるのでした。そちらも覗いてみましょう。


ちなみに、岩波現代文庫の解説で、丸谷才一氏は
こうも語っておりました。

「・・・わが国最初の聞書きの名手が篠田鉱造であることは、わたしが改めて言ひ立てるまでもなく、すでに名声が確立してゐるが、その先駆者の業績の最も優れたものは、男から話を聞いての『幕末百話』や『明治百話』ではなく、女たち相手の『幕末明治 女百話』であるやうに見受けられる。昭和になってからの仕事だから、かなりの年配の人たちばかりから聞き出したものだが、それでも明治初年、おそらく旧幕臣の子弟として東京赤坂に生れ、報知新聞記者となつた、これもかなりの年の人物の男としての魅力が老女たちに作用して、それで昔語りを引出すことにこれだけ成功してゐるやうに思はれてならない。ここでもまた性差が霊験あらたかな力として作用してゐた。まつたく同じことが『日本の鶯』の場合にも見て取れる。・・・・」

読む読まないは別にして、
ついつい、『幕末明治 女百話』を古本で注文(笑)。
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顔つくり。

2011-02-05 | 詩歌
新聞の歌壇を見ると、どうしても詠む方が年配の方々が多いせいか、ご自身のことを語る歌の内容も、自然と過ごしてきた年月のことになりがち。
そんななかに、対象として若い人が歌われているのは、ついつい目をひきます。

毎日歌壇(1月23日)篠弘選の5首目。

 三人が座席に開く教科書のページにマーカーの線がひしめく
       東京 庄野史子

毎日歌壇(1月30日)伊藤一彦選の最初の歌は

 物の怪に取り憑かれたるごと女高生一心不乱に顔つくりをり
        愛西市 坂元二男

この伊藤一彦氏の選評は
「公の場での化粧に対する非難の歌はよく見るが、この作は違う。あまりの『一心不乱』さに作者は感嘆したのだ。」

ここで、私は板坂元著「発想の智恵表現の智恵」をオモムロに取り出すのでした(笑)。この本には、発想の発句のような、考えを展開させてくれる発端まで、つれていってくれる楽しみがあるのでした。たとえば、この新書の目次をみると、こんな箇所がある。


p58「目で殺す」(目のメークアップは一首の魔除け。人を威嚇する効果がある)
それでは、そのページの文の前半部分を引用。


「リチャード・クロスによれば、目のメークアップは、見知らぬ人から見つめられるのを避ける作用を持っているという。知らない人同士が目を合わせるのは不快な経験だ。相手の目をのぞき込むのは、相手のプライバシーに割って入ることになるので親しい間柄とか、誰かにきちんと紹介されたのでなければ、社交上はタブーとなっている。
アフリカのバンブーン(ひひ)が敵をにらみつけるとき、瞼をあげると鮮やかな色が露出して相手を威嚇することになる。これと同じように目のメークアップは、一種の魔除けの役を果たすのだという。歌舞伎の隈取りも目を強調して人を威嚇するために用いられているからこの例に当てはまる。
ついでながら、日本でチンピラが『ガン(眼)をつけられた』と怒るのは、プライバシーの自由を損なわれたと感じるからだ。女性のメークアップも、クロス説では『ガンをつけられる』のを防ぐ目的があるという。・・・・」


「物の怪」と「魔除け」。
そうすると、坂元二男さんの一首は、日々プライバシーを守る儀式を「一心不乱」に行っている姿を、目にしてしまったという歌になるのでしょうか(笑)。何でしょうねえ。何事も「一心不乱」な姿は、興味を惹かれるものですし。


たのしみは、歌のおもわぬ切りこみに、目からウロコと味わえるとき。
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