「和田恒追悼文集 野分」(非売品)になかで、
青木和夫氏の文が印象に残ります。
はじまりは、
「昭和39年の初秋から40年の早春にかけて、和田さんは私のためにずいぶん迷惑なさった。40年早々から刊行の中央公論社版『日本の歴史』第三巻の編集を和田さんが担当し、その巻の執筆者がたまたま私だったためである。」
その次も引用しておきます。
「各巻は一人で執筆というこの企画に加わることを先輩から勧められたとき、私はためらった。勤め先の大学では概説を担当していたけれども、概説書を若いうちに書いて世間に知られることは嫌だったからである。・・・・和田さんは、すでに引受けられた各巻執筆者の名を教えてくださった。そのなかには私の畏敬していた篤学者S先生の名があった。私は安心して引受けることにした。だが和田さんは付けたした。『S先生にお勧めするとき、もう引受けてくださった先生がたのお名前をあげようとしましたらね、「それは言わないでください。お名前をうかがった後で私がお断りしたら、その方々に失礼になってしまうから」、「私は企画に賛成だからお引受けしたのです」って』。私は自分のことは棚に上げて、和田さんも、事の後でぼくに聞かせるなんて、けっこう悪いおひとだと思った。」
このあと、遅々として進まない原稿のことが語られるのですが(それも引用したくなるのですが)、それは省いて、最後の方をすこし。
「年賀状を書くのも返事するのも家内に任せ切りの正月あけには、さすがに原稿も書き終えていた。『遅くなった分は校正で取り返します』とか言って、私は大曲に程近い三晃印刷に連夜のように通った。和田さんは『最初の計算より倍も売れていますから、お書きになりたいことがあったら、何でもどうぞ。本を厚くして読者にサービスしましょうよ』という。私は必要最小限で納めるつもりであったが、勧めにのって少々書き足した。余白を減らすため、本文の最後に五行ばかり、感慨じみた文章を付加したのも、午前一時すぎ、印刷所の校正室で疲労困憊した挙句であった。この五行は、書物の最後しか読まぬ書評家たちに恰好の餌食となった。しかし和田さんは私に何も言わなかった。忘れることのできない仕事の日夜が過ぎてからも、何かにつけて私は和田さんに逢った。・・・・」
ついつい引用しちゃいました。
じつは「書物の最後しか読まぬ書評家たち」というのが引用したかっただけなに(笑)。
話はかわりますが、
山口仲美著「日本語の古典」(岩波新書)をパラパラめくっていたら、
最後の「エピローグ」は、こうはじまっておりました。
「この本の編集担当をしてくださったのは、早坂ノゾミさん。彼女とは拙著『日本語の歴史』(岩波新書)以来のお付き合いです。早坂さんが定年を迎えると聞いて、私はお世話になった御礼をしたいと思いました。私に出来ることといったら、よい本を書くことしかないのです。私は、自分の専門を生かしつつ、多くの方に読んでほしい本の企画をたてました。それが、この本です。」
え~。本の前書きと後書きしか読まない私は、おもわず、それじゃあ、と本文を読み始めたわけなのでした。日本の古典を30冊紹介していきます。その手腕たるや。一冊を語るのに、その本の一箇所をおもむろに取り出してみせるのです。
たとえば、今昔物語集では、伏見稲荷での顛末。まるで昨今の漫才タレントとその奥さんとのやりとりを撮影したテレビ番組でも見ているように活写しております(笑)。
また、題名にある「日本語」ということでは、
「語学的にも、『今昔物語集』は、現在の漢字かな交じり文の元祖となる文章様式を採用しており、重要な地位を占めています。・・・名詞や動詞などの自立語を漢字で大きく、助詞・助動詞・活用語尾をカタカナで小さく右に寄せて書いてある。時には、カタカナの部分が二行の小書きになる。一見とっつきにくい文章の様式ですが、これこそ、今の私たちの使っている漢字かな交じり文の元祖なのです。今日では、読みにくいので、原典のカタカナの部分を漢字と同じ大きさにしたり、さらにカタカナの部分をひらがなに直したりして通読しやすいテキストにしています。」(p107)
まあ、こんな風に日本語としての視点を生かして新書が編まれておりました。そして、その視点から「伊曾保物語」・「蘭東事始」を取り上げてもおります。
う~ん。プロローグもいいんだなあ。
けれど、ここではエピローグのこの箇所を引用しておきます。
それは、「心がけたこと」とあります。
「私がこの本を書くときに極力心がけたことがあります。
それは、できるかぎり自分の読書経験を大切にすることです。溢れるばかりの研究文献を読み漁っているうちに、いつしか書きたいことが雲散霧消してしまうことを恐れたのです。私は研究者ですから、それまでの研究論文を読破し、その上に自説を展開することに慣れているのです。でも、それでは、一般の方々には読みにくいだけです。自分で、初心にかえって作品そのものに向き合った時に感じたことを大切にし、それを研究で培ってきた分析力を使って説得性を持たせる。そういう本が、最も自分の個性が出る本になる。そう思えたからです。数々の研究文献に惑わされずに、自分の感性と分析力を生かす。それを最大のモットーにして書きました。」
う~ん。このエピローグに恥じない本文です。ですが、さらりと古典を触れていると勘違いして、ややもすると読み過ごしやすい。ということも、なきにしもあらず。私は、本棚に置いておきたい、単純にして貴重な一冊なのでした。
青木和夫氏の文が印象に残ります。
はじまりは、
「昭和39年の初秋から40年の早春にかけて、和田さんは私のためにずいぶん迷惑なさった。40年早々から刊行の中央公論社版『日本の歴史』第三巻の編集を和田さんが担当し、その巻の執筆者がたまたま私だったためである。」
その次も引用しておきます。
「各巻は一人で執筆というこの企画に加わることを先輩から勧められたとき、私はためらった。勤め先の大学では概説を担当していたけれども、概説書を若いうちに書いて世間に知られることは嫌だったからである。・・・・和田さんは、すでに引受けられた各巻執筆者の名を教えてくださった。そのなかには私の畏敬していた篤学者S先生の名があった。私は安心して引受けることにした。だが和田さんは付けたした。『S先生にお勧めするとき、もう引受けてくださった先生がたのお名前をあげようとしましたらね、「それは言わないでください。お名前をうかがった後で私がお断りしたら、その方々に失礼になってしまうから」、「私は企画に賛成だからお引受けしたのです」って』。私は自分のことは棚に上げて、和田さんも、事の後でぼくに聞かせるなんて、けっこう悪いおひとだと思った。」
このあと、遅々として進まない原稿のことが語られるのですが(それも引用したくなるのですが)、それは省いて、最後の方をすこし。
「年賀状を書くのも返事するのも家内に任せ切りの正月あけには、さすがに原稿も書き終えていた。『遅くなった分は校正で取り返します』とか言って、私は大曲に程近い三晃印刷に連夜のように通った。和田さんは『最初の計算より倍も売れていますから、お書きになりたいことがあったら、何でもどうぞ。本を厚くして読者にサービスしましょうよ』という。私は必要最小限で納めるつもりであったが、勧めにのって少々書き足した。余白を減らすため、本文の最後に五行ばかり、感慨じみた文章を付加したのも、午前一時すぎ、印刷所の校正室で疲労困憊した挙句であった。この五行は、書物の最後しか読まぬ書評家たちに恰好の餌食となった。しかし和田さんは私に何も言わなかった。忘れることのできない仕事の日夜が過ぎてからも、何かにつけて私は和田さんに逢った。・・・・」
ついつい引用しちゃいました。
じつは「書物の最後しか読まぬ書評家たち」というのが引用したかっただけなに(笑)。
話はかわりますが、
山口仲美著「日本語の古典」(岩波新書)をパラパラめくっていたら、
最後の「エピローグ」は、こうはじまっておりました。
「この本の編集担当をしてくださったのは、早坂ノゾミさん。彼女とは拙著『日本語の歴史』(岩波新書)以来のお付き合いです。早坂さんが定年を迎えると聞いて、私はお世話になった御礼をしたいと思いました。私に出来ることといったら、よい本を書くことしかないのです。私は、自分の専門を生かしつつ、多くの方に読んでほしい本の企画をたてました。それが、この本です。」
え~。本の前書きと後書きしか読まない私は、おもわず、それじゃあ、と本文を読み始めたわけなのでした。日本の古典を30冊紹介していきます。その手腕たるや。一冊を語るのに、その本の一箇所をおもむろに取り出してみせるのです。
たとえば、今昔物語集では、伏見稲荷での顛末。まるで昨今の漫才タレントとその奥さんとのやりとりを撮影したテレビ番組でも見ているように活写しております(笑)。
また、題名にある「日本語」ということでは、
「語学的にも、『今昔物語集』は、現在の漢字かな交じり文の元祖となる文章様式を採用しており、重要な地位を占めています。・・・名詞や動詞などの自立語を漢字で大きく、助詞・助動詞・活用語尾をカタカナで小さく右に寄せて書いてある。時には、カタカナの部分が二行の小書きになる。一見とっつきにくい文章の様式ですが、これこそ、今の私たちの使っている漢字かな交じり文の元祖なのです。今日では、読みにくいので、原典のカタカナの部分を漢字と同じ大きさにしたり、さらにカタカナの部分をひらがなに直したりして通読しやすいテキストにしています。」(p107)
まあ、こんな風に日本語としての視点を生かして新書が編まれておりました。そして、その視点から「伊曾保物語」・「蘭東事始」を取り上げてもおります。
う~ん。プロローグもいいんだなあ。
けれど、ここではエピローグのこの箇所を引用しておきます。
それは、「心がけたこと」とあります。
「私がこの本を書くときに極力心がけたことがあります。
それは、できるかぎり自分の読書経験を大切にすることです。溢れるばかりの研究文献を読み漁っているうちに、いつしか書きたいことが雲散霧消してしまうことを恐れたのです。私は研究者ですから、それまでの研究論文を読破し、その上に自説を展開することに慣れているのです。でも、それでは、一般の方々には読みにくいだけです。自分で、初心にかえって作品そのものに向き合った時に感じたことを大切にし、それを研究で培ってきた分析力を使って説得性を持たせる。そういう本が、最も自分の個性が出る本になる。そう思えたからです。数々の研究文献に惑わされずに、自分の感性と分析力を生かす。それを最大のモットーにして書きました。」
う~ん。このエピローグに恥じない本文です。ですが、さらりと古典を触れていると勘違いして、ややもすると読み過ごしやすい。ということも、なきにしもあらず。私は、本棚に置いておきたい、単純にして貴重な一冊なのでした。