板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)は新書サイズ。
発想のタネになる格言を2~3行引用してコメントを1~2頁書いて、つぎつぎと並べております。その最初の箇所に「手紙」が登場しているので、それじゃあ、この一冊に手紙が何ページに出てくるのか、ぱらぱらとめくってみることにしました。
まずは、最初の箇所。
「・・・アイデアとはそういう努力の果てに生まれるものなのだ。その意味では、人と話したり手紙を書いたりすることが、大いに役立つことがある。私の場合は、知人に手紙を書いているうちに、うまい考えが出ることが多いので、何か仕事を始めると、同じ日に二度も友人に手紙を書いたこともある。状況を詳しく説明するような手紙を書くとき、頭の中が整理されてきて、気のつかなかったアイデアが飛び出してくるものだ。」(p14)
「慣れれば人を待つ五分間でハガキ一枚くらい書くことができる。手帳を開いてスケジュールをチェックしたり、ショッピングリストを作ったり、いろいろなことが五分間で果たせる。棋士の持ち時間のように無駄なく使えれば、人生は豊かになる。・・・」(p16)
「日本の企業はレターヘッドにあまり関心を払わない。・・・・
そして何より日本の会社に手紙を出しても返事がこない、というのはアメリカ人の間で定評になっている。心すべきだろう。」(p52~53)
「『自分はフェアバンク教授に読んでもらう、ということを頭に置かないで書いたことは一度もない。 T・H・ホワイト』
・・・・フェアバンク教授・・若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本的精神があったのだ。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは先刻承知している。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくど書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起してしまうだろう。」(p72)
「手紙を書くことによるコミュニケーションは、面と向かって話すことや電話で話すことよりも難しい。アメリカの社会人類学者アルバート・メラービンの説によると、実験の結果・・・
目とか口などで相手に通じるものがもっとも有力で、つぎが声の調子、そして言葉によってわずかなものが相手に伝達されるというわけだ。つまり、面と向かって話せば100%、電話で話せば45%、手紙で書けば7%しか効果が上がらないことになる。だから『手紙を書くように』というのも、説得のためには相当に難しい仕事と覚悟しなければならない。文章も、文体とか言葉づかいは別にしても、欲を言って『手紙を書くように』からさらに一歩進んで『面と向かって話すつもり』『電話をかけて説明する』といった気持ちで書くように努力すべきなのだろう。」(p73)
「たとえどんな小さな問題でも、既に学会の定説になっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか『某氏の手紙による』などとフットノートをつけている人もいるが、そういうクセを若いときから身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)
「『かつて永井荷風は毛筆書きの手紙でないと読まずに破り捨てたという。』
私は、若い人からよく手紙をもらうが、ときどきノートを破りとった紙に手紙を書いてくる人がいる。永井荷風ほど偏屈ではないが、あまりうれしくは思わない。同じことで、絵葉書や航空書簡を使うのも場合によっては失礼になる。用件が多かれ少なかれビジネスなり公用に関するもので、特に未知の人や目上の人には絵葉書を出すものではないし、航空書簡も親近感がない人には出すべきではない。・・・・・
私信はできるだけ手書きがより。水茎のあと麗しき便りが廃れて久しい今日この頃、ワープロ打ちの手紙の最後に自分の手で署名することさえしない人が多い。・・・・アメリカでも、結婚祝いに対するサンキューレターや、パーティなどへの招待状に対する返事、お祝いの手紙、弔問・慰めのレターなどは手書きが普通になっている。年長者とか新しい知り合いに対しても、自筆の手紙のほうが親しみの度を深めるものだ。
年賀状や挨拶状なども、せめて自分の氏名の部分だけは手書きにしたほうが人間的ぬくもりが生れてくるだろう。・・・」(p76~77)
あと、夏目漱石から芥川龍之介への手紙(p138~139)や
小説『チャリング・クロス街84番地』(ヘレン・ハンフ著)(p140)などもありました。
以上「 発想の智恵 表現の智恵 」における手紙のしめる割合。
発想のタネになる格言を2~3行引用してコメントを1~2頁書いて、つぎつぎと並べております。その最初の箇所に「手紙」が登場しているので、それじゃあ、この一冊に手紙が何ページに出てくるのか、ぱらぱらとめくってみることにしました。
まずは、最初の箇所。
「・・・アイデアとはそういう努力の果てに生まれるものなのだ。その意味では、人と話したり手紙を書いたりすることが、大いに役立つことがある。私の場合は、知人に手紙を書いているうちに、うまい考えが出ることが多いので、何か仕事を始めると、同じ日に二度も友人に手紙を書いたこともある。状況を詳しく説明するような手紙を書くとき、頭の中が整理されてきて、気のつかなかったアイデアが飛び出してくるものだ。」(p14)
「慣れれば人を待つ五分間でハガキ一枚くらい書くことができる。手帳を開いてスケジュールをチェックしたり、ショッピングリストを作ったり、いろいろなことが五分間で果たせる。棋士の持ち時間のように無駄なく使えれば、人生は豊かになる。・・・」(p16)
「日本の企業はレターヘッドにあまり関心を払わない。・・・・
そして何より日本の会社に手紙を出しても返事がこない、というのはアメリカ人の間で定評になっている。心すべきだろう。」(p52~53)
「『自分はフェアバンク教授に読んでもらう、ということを頭に置かないで書いたことは一度もない。 T・H・ホワイト』
・・・・フェアバンク教授・・若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本的精神があったのだ。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは先刻承知している。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくど書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起してしまうだろう。」(p72)
「手紙を書くことによるコミュニケーションは、面と向かって話すことや電話で話すことよりも難しい。アメリカの社会人類学者アルバート・メラービンの説によると、実験の結果・・・
目とか口などで相手に通じるものがもっとも有力で、つぎが声の調子、そして言葉によってわずかなものが相手に伝達されるというわけだ。つまり、面と向かって話せば100%、電話で話せば45%、手紙で書けば7%しか効果が上がらないことになる。だから『手紙を書くように』というのも、説得のためには相当に難しい仕事と覚悟しなければならない。文章も、文体とか言葉づかいは別にしても、欲を言って『手紙を書くように』からさらに一歩進んで『面と向かって話すつもり』『電話をかけて説明する』といった気持ちで書くように努力すべきなのだろう。」(p73)
「たとえどんな小さな問題でも、既に学会の定説になっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか『某氏の手紙による』などとフットノートをつけている人もいるが、そういうクセを若いときから身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)
「『かつて永井荷風は毛筆書きの手紙でないと読まずに破り捨てたという。』
私は、若い人からよく手紙をもらうが、ときどきノートを破りとった紙に手紙を書いてくる人がいる。永井荷風ほど偏屈ではないが、あまりうれしくは思わない。同じことで、絵葉書や航空書簡を使うのも場合によっては失礼になる。用件が多かれ少なかれビジネスなり公用に関するもので、特に未知の人や目上の人には絵葉書を出すものではないし、航空書簡も親近感がない人には出すべきではない。・・・・・
私信はできるだけ手書きがより。水茎のあと麗しき便りが廃れて久しい今日この頃、ワープロ打ちの手紙の最後に自分の手で署名することさえしない人が多い。・・・・アメリカでも、結婚祝いに対するサンキューレターや、パーティなどへの招待状に対する返事、お祝いの手紙、弔問・慰めのレターなどは手書きが普通になっている。年長者とか新しい知り合いに対しても、自筆の手紙のほうが親しみの度を深めるものだ。
年賀状や挨拶状なども、せめて自分の氏名の部分だけは手書きにしたほうが人間的ぬくもりが生れてくるだろう。・・・」(p76~77)
あと、夏目漱石から芥川龍之介への手紙(p138~139)や
小説『チャリング・クロス街84番地』(ヘレン・ハンフ著)(p140)などもありました。
以上「 発想の智恵 表現の智恵 」における手紙のしめる割合。