内田樹氏の「私の身体は頭がいい」を読んだら、
きっかけがつかめたような感じがして、
つぎに開いたのが内田樹著「ためらいの倫理学」(角川文庫)。
その「まえがき」のはじまりは
「『ためらいの倫理学』は私の最初の単著であり、いわば『デビュー作』である。・・・この本に収録されたエッセイ類は、もとはインターネットのホームページに、せいぜい百人程度の『身内』の読者を想定して書いたものである。・・・」
うんうん。こういう始まりの本を読めるのはありがたいなあ。
それも、ネット上の書き込みというのだから、
この書き込みの土俵が、わかって理解を助けます。
そういえば、雑誌へ書くのと、ネット上での書き込みとでは、
やはり、書く気構えが違うんでしょうね(私しゃわからない)。
その違いがなんであるのか。
それを読めるのは、これまた愉しみ。
ということで、「まえがき」だけで私は満腹。
ということで、もうすこし「まえがき」を引用。
「そもそもTVが伝える『街の生の声』や、新聞投稿欄にひしめく投書や、ワイドショーの『おばさん・おじさん』コメンテーターの騒がしい毒舌は果たして『生活者の実感』を伝える肉声なのであろうか。私はいささか懐疑的である。それはむしろ『街の声』や『市井の人々の声』とはこのようなものであろうというメディアの期待にすり寄ってくる『作り声』なのではないか。・・・・いずれにせよ、『生活者のリアルな実感』というものがメディアの『定型への囲い込み』によって限りなく痩せ細っているのは事実である。それにもかかわらず、私たちは、そのようなステレオタイプ化された『生活者の声』を『世界の現実』に対置することにいくばくかの批評性があるかのような錯覚のうちにいまだに安んじている。」
「『生活者の実感』のステレオタイプにも、『専門的知見』のステレオタイプにも回収されない、『ふつうの人の、ふつうの生活実感』に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)。」
う~ん。私はこの「まえがき」で、じゅうぶん満腹。
ということで、本文は読まずに(笑)。
「あとがき」へ。
「この本がちょっと変わっているのは、収録されたテクストのほとんどがウェブ・サイトで発表されたものだということである。私は大学の教師であり、ときどき学術誌に論文を発表するが、読んでくれる人はあまりいない(大学で出している紀要論文の場合『読者は五人』と言われている。『抜き刷り』というのを五十部ほどもらうが、送る相手はそれほどいないので、大半はそのまま部屋の隅で埃をかぶている)。・・・
最初は『身内』にだけ読んでもらうつもりで書いていたが、そのうち見知らぬ人々からも『面白く読んでます』というメールをいただくようになる。こういう『読者からの励ましのお便り』が作者の創作意欲を激しく刺激するということは、少女漫画の『あとがき』には必ず書いてあるが、これはほんとうである。」
うん。角川文庫には、単行本の際の附録として増田聡・山本浩二の文があり、さらには、文庫解説として高橋源一郎の「ずっとずっと待っていた」という文もあるのでした。その源一郎さんの解説には
「内田さんが『思想家』というカテゴリーに入るのかどうかわたしにはわからない。『思索家』という方が正確なのかもしれない。あるいは『思索コンサルタント』?『思索コーディネーター』?『思索療法師』?」(p370)
さてっと、本文は読まなくてもいいような満腹感(笑)。
今年は、あれも読むぞ、これも読むぞと、もう言ってしまっているので(もう何を読むんだったか忘れてます)、内田樹を読むぞとは言わないぞ。
きっかけがつかめたような感じがして、
つぎに開いたのが内田樹著「ためらいの倫理学」(角川文庫)。
その「まえがき」のはじまりは
「『ためらいの倫理学』は私の最初の単著であり、いわば『デビュー作』である。・・・この本に収録されたエッセイ類は、もとはインターネットのホームページに、せいぜい百人程度の『身内』の読者を想定して書いたものである。・・・」
うんうん。こういう始まりの本を読めるのはありがたいなあ。
それも、ネット上の書き込みというのだから、
この書き込みの土俵が、わかって理解を助けます。
そういえば、雑誌へ書くのと、ネット上での書き込みとでは、
やはり、書く気構えが違うんでしょうね(私しゃわからない)。
その違いがなんであるのか。
それを読めるのは、これまた愉しみ。
ということで、「まえがき」だけで私は満腹。
ということで、もうすこし「まえがき」を引用。
「そもそもTVが伝える『街の生の声』や、新聞投稿欄にひしめく投書や、ワイドショーの『おばさん・おじさん』コメンテーターの騒がしい毒舌は果たして『生活者の実感』を伝える肉声なのであろうか。私はいささか懐疑的である。それはむしろ『街の声』や『市井の人々の声』とはこのようなものであろうというメディアの期待にすり寄ってくる『作り声』なのではないか。・・・・いずれにせよ、『生活者のリアルな実感』というものがメディアの『定型への囲い込み』によって限りなく痩せ細っているのは事実である。それにもかかわらず、私たちは、そのようなステレオタイプ化された『生活者の声』を『世界の現実』に対置することにいくばくかの批評性があるかのような錯覚のうちにいまだに安んじている。」
「『生活者の実感』のステレオタイプにも、『専門的知見』のステレオタイプにも回収されない、『ふつうの人の、ふつうの生活実感』に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)。」
う~ん。私はこの「まえがき」で、じゅうぶん満腹。
ということで、本文は読まずに(笑)。
「あとがき」へ。
「この本がちょっと変わっているのは、収録されたテクストのほとんどがウェブ・サイトで発表されたものだということである。私は大学の教師であり、ときどき学術誌に論文を発表するが、読んでくれる人はあまりいない(大学で出している紀要論文の場合『読者は五人』と言われている。『抜き刷り』というのを五十部ほどもらうが、送る相手はそれほどいないので、大半はそのまま部屋の隅で埃をかぶている)。・・・
最初は『身内』にだけ読んでもらうつもりで書いていたが、そのうち見知らぬ人々からも『面白く読んでます』というメールをいただくようになる。こういう『読者からの励ましのお便り』が作者の創作意欲を激しく刺激するということは、少女漫画の『あとがき』には必ず書いてあるが、これはほんとうである。」
うん。角川文庫には、単行本の際の附録として増田聡・山本浩二の文があり、さらには、文庫解説として高橋源一郎の「ずっとずっと待っていた」という文もあるのでした。その源一郎さんの解説には
「内田さんが『思想家』というカテゴリーに入るのかどうかわたしにはわからない。『思索家』という方が正確なのかもしれない。あるいは『思索コンサルタント』?『思索コーディネーター』?『思索療法師』?」(p370)
さてっと、本文は読まなくてもいいような満腹感(笑)。
今年は、あれも読むぞ、これも読むぞと、もう言ってしまっているので(もう何を読むんだったか忘れてます)、内田樹を読むぞとは言わないぞ。