和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安心・安全。

2011-06-01 | 短文紹介
安心・安全といえば、安全と水という連想で、思い浮かぶのは、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」でした。まあ、それはそれとして、新聞雑誌を見ていると、「安心・安全」について思いをはせることになります。
たとえば、産経新聞5月27日一面「小さな親切、大きなお世話」の曽野綾子氏の文に

「・・・私は私の人生で、かつて一度も、安心して暮らしたことはない。今一応家内安全なら、こんな幸運が続いていいのだろうか。電気も水道も止まらない生活がいつまでできるのだろうか、私の健康はいつまで保つのだろうか、と、絶えず現状を信じずに暮らしてきた。
何度も書いているのだが、安心して暮らせる生活などというものを、人生を知っている大の大人が言うものではない。そんなものは、地震や津波が来なくても、もともとどこにもないのである、アナウンサーにも、最低限それくらいの人生に対する恐れを持たせたいと、お子さま放送局みたいになって、聞くに堪えない軽さで人生を伝えることになる。・・・」

曽野さんといえば、VOICE6月号の連載「私日記」の文章の最後には、こうあります。

「・・私は書き下ろしで、東日本大震災のことを書き続けている。私にとっては、地震も津波も原発の事故も、『安心して暮らせない』社会ということで一つのテーマになっていたので、心の中のもやもやを書いて整理する必要を感じていた。事故が起きてやっと、それ以前の日本は夢のようないい国だったとわかったのである。」

ところで、VOICE6月号にはロバート・キャンベル氏の文が掲載されております。そこにも「安心・安全」への言及がありました。

「日本は歴史的に災害に遭ってきたけれども、ここ六十年ほどは平和が続き、『安心・安全』が共同体を束ねる紐帯(ちゅうたい)になっています。これは日本特有で、欧米では『安心・安全』は、それほど積極的な価値としていわれません。さらに、じつは江戸時代には『安心』という言葉自体がなかったのです。この現代の状況に、私は若干、不安を覚えます。これだけ『安心・安全』といわれてしまうと、無菌状態になって、社会が衰弱するのではないかと思うのです。・・・・
『安心・安全』は、ある意味、人間を善意で騙してしまうフレーズです。そこで思考がストップしてしまい、もっと大きなリスクを、そこで背負わせてしまうかもしれません。いま私たちはいったん立ち止まって、社会のあり方について、再点検してみてもいいのではないでしょうか。」(p171)

『安心・安全』という言葉にたいする姿勢が、ここにはある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする