東日本大震災で、あらためて、読んだ津波の本2冊。
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)
山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)
というのが、私の気になった2冊。
2冊目の山下文男氏は1924年岩手県三陸海岸生まれ。
「津波てんでんこ」での著者紹介には
「現在、大船渡市綾里地区在住」となっておりました。
新聞・雑誌の記事では、入院中の山下氏も津波に遭遇したとあったのです。
新刊の佐野眞一著「津波と原発」(講談社)にその山下氏との会話がでてくる。佐野眞一氏が山下文男氏と直接会って、聞き書きしております。
さて、佐野眞一著「津波と原発」は
第一部「日本人と大津波」が~p66。
第二部「原発街道を往く」が~p236。
と、後半の第二部に多くのページをさいておりますが、
第一部の人脈を通じての報告が、なかなかのものです。
ここに、山下文男氏が登場する箇所を引用してみます。
「山下はベッドに横たわったまま『やあ佐野さん、まさかこんなところであなたに会うなんて、思いもしなかったよ』と言った。」(p53)
これを以下引用しておきます。
――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。
『僕はあの病院の四階に入院していたんです』
――えっ、津波は四階まできたんですか。
『津波が病院の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです。・・・僕はインド洋津波(スマトラ沖地震津波)のビデオの解説をしていますが、あれとそっくり同じ光景でした。大木やいろいろなものが流されて、人が追いつかれて、人が巻き込まれるのは見ています』
――それを四階の病室から見ていたんですね。
『そう、それを最後まで見届けようと思った。と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が』
――わが国津波研究の第一人者がね。
『・・・窓から津波を見ていた。ところが、四階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。ドドーン、ドドーンという音が二発して、三発目に四階の窓から波しぶきがあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで見届けようと思っていた僕もさらわれた。そのとき手に握っていたカギも流された。僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした』
――でも水はどんどん入ってくる。
『そう、水嵩は二メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた』
――もう死んでも放さないと。
『そうそう。そのうち今度は引き波になった。引き波というのはすさまじいもんだ。押し寄せる波の何倍も力がある』
・・・・・山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。
ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊したバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。
『36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ』
山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。山下はその毛布を移送された花巻の病院でも、ホテルでも子どものように握りしめて放さなかった。・・・・(~p57)
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)
山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)
というのが、私の気になった2冊。
2冊目の山下文男氏は1924年岩手県三陸海岸生まれ。
「津波てんでんこ」での著者紹介には
「現在、大船渡市綾里地区在住」となっておりました。
新聞・雑誌の記事では、入院中の山下氏も津波に遭遇したとあったのです。
新刊の佐野眞一著「津波と原発」(講談社)にその山下氏との会話がでてくる。佐野眞一氏が山下文男氏と直接会って、聞き書きしております。
さて、佐野眞一著「津波と原発」は
第一部「日本人と大津波」が~p66。
第二部「原発街道を往く」が~p236。
と、後半の第二部に多くのページをさいておりますが、
第一部の人脈を通じての報告が、なかなかのものです。
ここに、山下文男氏が登場する箇所を引用してみます。
「山下はベッドに横たわったまま『やあ佐野さん、まさかこんなところであなたに会うなんて、思いもしなかったよ』と言った。」(p53)
これを以下引用しておきます。
――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。
『僕はあの病院の四階に入院していたんです』
――えっ、津波は四階まできたんですか。
『津波が病院の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです。・・・僕はインド洋津波(スマトラ沖地震津波)のビデオの解説をしていますが、あれとそっくり同じ光景でした。大木やいろいろなものが流されて、人が追いつかれて、人が巻き込まれるのは見ています』
――それを四階の病室から見ていたんですね。
『そう、それを最後まで見届けようと思った。と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が』
――わが国津波研究の第一人者がね。
『・・・窓から津波を見ていた。ところが、四階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。ドドーン、ドドーンという音が二発して、三発目に四階の窓から波しぶきがあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで見届けようと思っていた僕もさらわれた。そのとき手に握っていたカギも流された。僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした』
――でも水はどんどん入ってくる。
『そう、水嵩は二メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた』
――もう死んでも放さないと。
『そうそう。そのうち今度は引き波になった。引き波というのはすさまじいもんだ。押し寄せる波の何倍も力がある』
・・・・・山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。
ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊したバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。
『36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ』
山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。山下はその毛布を移送された花巻の病院でも、ホテルでも子どものように握りしめて放さなかった。・・・・(~p57)