佐々淳行・渡部昇一対談「国家の実力」(致知出版社)を読んで、つぎに米長邦雄・渡部昇一対談「行き方の流儀」(到知出版社)を買ったところです。
佐々】 大学の頃、私は日本育成会の特別奨学生だったんです。17歳の時におやじが亡くなったから、どん底ですよ。奨学金がなかったら、たぶん大学には行けなかったでしょう。でも、あの頃の日本国はすごかった。敗戦の中から英才を育てようというので、公務員給与が月平均4200円の時に、4000円もらっていましたからね。東大の学費が一年間で3600円でしたから、奨学金で母親を養えたんです。その代わり、試験で一桁に残っていないと普通奨学生に格下げになるんです。だから自分には、日本育成会に恩になったという思いがありました。奨学金というのは私自身のことを何も知らない納税者のお金ですから、それに恩義を感じて『みんなのために役に立つ奉仕者になろう』と思うようになったんです。そんな時にたまたま高野先生の講義を聞いて、進路に警察庁を考えるようになり、結果的に、警察庁と防衛庁と外務省と内閣で仕事をしました・・・・」(p161~162)
「生き方の流儀」のまえがきは、渡部昇一氏でした。
そのまえがきに、福原麟太郎氏のエピソードが登場しておりました。
「対談し始めると間もなく、あの大地震が起こった。われわれは、ホテルニューオータニの37階にいた。・・・結局、われわれはホテルの避難指示の館内放送を無視して対談を続けることにした。・・こういうときに私の頭の中に浮かぶのは、福原麟太郎先生の『かの年月』という本だ。これは昭和19年10月1日から昭和20年10月20日までの一年間の日記である。つまり日本の敗戦が顕著になりはじめてから敗戦、それから戦争直後のゴタゴタの二か月間に至る一年間の生活記録だ。福原先生は英文学――当時の敵国の文学――の教授である。その福原先生とその周囲の人々、またその弟子たちがいかにその非常時に生きていたかである。福原先生は授業やゼミでは及ぶ限り平時の如く英文学を講じ、自宅でも読書をされている。空襲のために中断して防空壕に入ったり、登下校の電車が停まったり、弟子が出征したり、停電したりする。しかし先生は及ぶ限り平和時の如く勉強を続け、授業を続けようとしておられた。学徒勤労動員で軍需工業に行っている学生のためには、昼休みの時間にも英文学の話をしている。
当時の多くの人たちからは『そんなことをしてこの非常時に何になるのか』と思われたことであろう。しかし福原先生は国のお金で留学して英文学を研究する機会を与えられ、国から英文学教授として給料を与えられている。国から別の命令がこない限りは、本職の仕事を及ぶ限りやり続けるという御覚悟のようであった。
若い頃にこの福原先生の本を読んだとき、『自分がこんな非常時に遭うことはなさそうだが、何かあったときは、及ぶ限り先生の如く生きたいものだ』と思った。戦時に比べれば、東京のホテルで体験した地震などはとるに足らないことであった。しかしそのとき、頭に浮かんだのは福原先生の日記のことだったのである。自分が今慌てて何をしようと、誰のためにも、何の役にも立たない。眼前の仕事を続けるのがよいのではないか。米長先生も到知出版社の人たちも同じ気持ちで、対談は深夜まで続けられたのである。」(p3~4)
佐々】 大学の頃、私は日本育成会の特別奨学生だったんです。17歳の時におやじが亡くなったから、どん底ですよ。奨学金がなかったら、たぶん大学には行けなかったでしょう。でも、あの頃の日本国はすごかった。敗戦の中から英才を育てようというので、公務員給与が月平均4200円の時に、4000円もらっていましたからね。東大の学費が一年間で3600円でしたから、奨学金で母親を養えたんです。その代わり、試験で一桁に残っていないと普通奨学生に格下げになるんです。だから自分には、日本育成会に恩になったという思いがありました。奨学金というのは私自身のことを何も知らない納税者のお金ですから、それに恩義を感じて『みんなのために役に立つ奉仕者になろう』と思うようになったんです。そんな時にたまたま高野先生の講義を聞いて、進路に警察庁を考えるようになり、結果的に、警察庁と防衛庁と外務省と内閣で仕事をしました・・・・」(p161~162)
「生き方の流儀」のまえがきは、渡部昇一氏でした。
そのまえがきに、福原麟太郎氏のエピソードが登場しておりました。
「対談し始めると間もなく、あの大地震が起こった。われわれは、ホテルニューオータニの37階にいた。・・・結局、われわれはホテルの避難指示の館内放送を無視して対談を続けることにした。・・こういうときに私の頭の中に浮かぶのは、福原麟太郎先生の『かの年月』という本だ。これは昭和19年10月1日から昭和20年10月20日までの一年間の日記である。つまり日本の敗戦が顕著になりはじめてから敗戦、それから戦争直後のゴタゴタの二か月間に至る一年間の生活記録だ。福原先生は英文学――当時の敵国の文学――の教授である。その福原先生とその周囲の人々、またその弟子たちがいかにその非常時に生きていたかである。福原先生は授業やゼミでは及ぶ限り平時の如く英文学を講じ、自宅でも読書をされている。空襲のために中断して防空壕に入ったり、登下校の電車が停まったり、弟子が出征したり、停電したりする。しかし先生は及ぶ限り平和時の如く勉強を続け、授業を続けようとしておられた。学徒勤労動員で軍需工業に行っている学生のためには、昼休みの時間にも英文学の話をしている。
当時の多くの人たちからは『そんなことをしてこの非常時に何になるのか』と思われたことであろう。しかし福原先生は国のお金で留学して英文学を研究する機会を与えられ、国から英文学教授として給料を与えられている。国から別の命令がこない限りは、本職の仕事を及ぶ限りやり続けるという御覚悟のようであった。
若い頃にこの福原先生の本を読んだとき、『自分がこんな非常時に遭うことはなさそうだが、何かあったときは、及ぶ限り先生の如く生きたいものだ』と思った。戦時に比べれば、東京のホテルで体験した地震などはとるに足らないことであった。しかしそのとき、頭に浮かんだのは福原先生の日記のことだったのである。自分が今慌てて何をしようと、誰のためにも、何の役にも立たない。眼前の仕事を続けるのがよいのではないか。米長先生も到知出版社の人たちも同じ気持ちで、対談は深夜まで続けられたのである。」(p3~4)