和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

消防団の人が来て。

2011-07-25 | 短文紹介
梯久美子著「昭和二十年夏、子供たちが見た日本」。
とりあえず、パラパラと読了。
また、あらためて読み直したい一冊。

さてっと、この本は
雑誌「本の旅人」平成22年9月~平成23年7月号の連載をまとめたもの。
途中に、今年の3月11日がはさまっているわけです。
どうしても、それが気になりながらの、妙に共通項を感じさせる一冊。
たとえば、児玉清さんへのインタビューに
戦争中のこんなエピソードが紹介されております。

「すぐ上の、二歳違いの姉は、焼夷弾が落ちた近所の商店街にバケツを持って駆けつけて、火を消そうとしたらしいです。
当時の日本人は、爆弾が落ちたら消すようにという教育を受けていたんですね。初期消火に努めて延焼を防ぐよう、訓練されていた。『最初一秒濡れむしろ、かけてかぶせて砂で消す』なんていう歌を僕も歌った覚えがあります。まず水で濡らしたむしろをかぶせ、そのあと砂をかけて消せというわけです。それを姉は律儀に守ろうとしたんですね。ところが、駆けつけた現場には誰もいなかった。消防団の人が来て『逃げろ』と言うので、バケツを抱えたまま、急いで逃げたそうです。・・・」(p50)

何でもない箇所ですが、「消防団の人が来て『逃げろ』と言うので」
などというのは、地震津波の被災地のことを、つい思い描いてしまうのでした。

最後は五木寛之さんでした。そこにこんな箇所。

「敗戦の翌日だったか、父親が教えていた師範学校の朝鮮人学生たちが家にやって来ました。腕に『人民保安隊』という腕章を巻き、腰には拳銃を下げていました。・・・終戦になったらこういう運動を展開するという計画がすでにあったんでしょう。父親は『君たちはそんなことをやっていたのか』と、びっくり仰天していました。彼らは『先生、なるべく早くピョンヤンを出られたほうがいいです』と助言してくれました。『おそらくソ連も入ってくるでしょう。日本に引き揚げられたほうが安全です』と。でも父親はピンと来ないんですね。『いやあ、どうすればいいのかなあ』というようなことを言っていました。というのも当時の唯一の公的な情報源で、日本人がもっとも信頼をおいていたメディアであるラジオが、繰り返し、『治安は維持される、市民は軽挙妄動せず現地にとどまれ』と告げていたからである。・・・・・当局はおそらく、市民の間にパニックが起こることをおそれたんでしょう。情報の格差というのは怖ろしいと、つくづく思います。情報というものの価値に対して、わたしたちは鈍感です。特有のいい加減さがある。・・・・
情報というものは、貪欲に集めようとすれば、かならずどこからか摑んでくることができるはずです。でも、お上の言うことを聞いていればいいという習慣が身についてしまっているから、それをしようとしない。ましてラジオで放送されたわけですから、まったく疑いをもたなかった。・・・・結局、日本人はいまも、そしてこれからも、同じなのかもしれないとも思います。お上の意に反して、自分の決断で行動するということがなかなかできない。・・・」(p282~285)


今度の地震津波や原発事故のことを、知らず知らずのうちに思い浮かべてしまいかねない箇所を引用してみました。
コメント
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