産経新聞7月23日(土曜日)の読書欄「産経書房」が面白かったなあ。
いつも、ここにある「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」を楽しみにしているのですが、この頃、その週刊誌もまた買わなくなりましたので、花田氏の文を読むだけで楽しんでおります。さてっと、7月23日のこの読書欄では
書評倶楽部で福原義春氏が梯久美子著「昭和二十年夏、子供たちが見た日本」(角川書店)を紹介しており。その下の「話題の本」では見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を海老沢類氏が書いておりました。そして産経書房(各出版社の出版部の方が、企画本を紹介しているコーナー)では、2冊紹介されておりまして、1冊目は瀬戸内寂聴・梅原猛著「生ききる。」(角川oneテーマ21)。
ここまでの3冊を買いまして、どれも印象に残るのでした。
ということで、あと1冊紹介されていた古賀茂明著「官僚の責任」(PHP新書)を、さっそく注文。これで、この日紹介された4冊を揃えることになりました。
私としては、4冊とも買うなんて、いままでにない買い物です。
あ、そうそう。そういえば、写真集も紹介されていたのでした。
それは買いません。でもせっかくですから、(存)さんの紹介記事。
蜷川実花写真集「桜」(河出書房新社・2415円)。
以下、(存)さんの全文。
「あとがきを何度も読み返した。
『今年の桜を撮りたかった。私が私であるために、自分で自分を支えるために。目の前の現実と向き合う準備、そしてほんの一瞬の気分的な逃避。映画や漫画のような非現実の世界が私達の日常に、その異常な日常に日々慣れていく自分。何かに取り憑かれたように撮影した』
東日本大震災に向き合おうとする写真家の、痛々しいほどに率直な心境の吐露。再び最初からページを繰る。彼女の真骨頂といえるきらびやかなイメージの乱舞。美しさにも、ひとを支える力がある。アートは無力じゃない、と言いたくなった。」
ここまで、引用すると、花田紀凱氏の文もすこし引用。
週刊新潮の記事から
「 『新潮』の長瀧重信長崎大学名誉教授のコメントに尽きるのではないか。
【 「放射能の影響については膨大な論文があり、自分に都合のいいように論文を選ぶと、正反対のことも『科学的に正しい』と言えてしまいます」 】
・ ・・で、1ミリシーベルトはどうなのか。
【 「100ミリシーベルト以下では放射線の影響は科学的に認められない」 】 」
以上、産経の古新聞の整理をしていたら、あらためて気づいたのでした。
いつも、ここにある「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」を楽しみにしているのですが、この頃、その週刊誌もまた買わなくなりましたので、花田氏の文を読むだけで楽しんでおります。さてっと、7月23日のこの読書欄では
書評倶楽部で福原義春氏が梯久美子著「昭和二十年夏、子供たちが見た日本」(角川書店)を紹介しており。その下の「話題の本」では見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を海老沢類氏が書いておりました。そして産経書房(各出版社の出版部の方が、企画本を紹介しているコーナー)では、2冊紹介されておりまして、1冊目は瀬戸内寂聴・梅原猛著「生ききる。」(角川oneテーマ21)。
ここまでの3冊を買いまして、どれも印象に残るのでした。
ということで、あと1冊紹介されていた古賀茂明著「官僚の責任」(PHP新書)を、さっそく注文。これで、この日紹介された4冊を揃えることになりました。
私としては、4冊とも買うなんて、いままでにない買い物です。
あ、そうそう。そういえば、写真集も紹介されていたのでした。
それは買いません。でもせっかくですから、(存)さんの紹介記事。
蜷川実花写真集「桜」(河出書房新社・2415円)。
以下、(存)さんの全文。
「あとがきを何度も読み返した。
『今年の桜を撮りたかった。私が私であるために、自分で自分を支えるために。目の前の現実と向き合う準備、そしてほんの一瞬の気分的な逃避。映画や漫画のような非現実の世界が私達の日常に、その異常な日常に日々慣れていく自分。何かに取り憑かれたように撮影した』
東日本大震災に向き合おうとする写真家の、痛々しいほどに率直な心境の吐露。再び最初からページを繰る。彼女の真骨頂といえるきらびやかなイメージの乱舞。美しさにも、ひとを支える力がある。アートは無力じゃない、と言いたくなった。」
ここまで、引用すると、花田紀凱氏の文もすこし引用。
週刊新潮の記事から
「 『新潮』の長瀧重信長崎大学名誉教授のコメントに尽きるのではないか。
【 「放射能の影響については膨大な論文があり、自分に都合のいいように論文を選ぶと、正反対のことも『科学的に正しい』と言えてしまいます」 】
・ ・・で、1ミリシーベルトはどうなのか。
【 「100ミリシーベルト以下では放射線の影響は科学的に認められない」 】 」
以上、産経の古新聞の整理をしていたら、あらためて気づいたのでした。