外山滋比古著「日本語の作法」(日経BP社)は
2008年10月発行でした。
このあいだネット検索していたら偶然に
この本が文庫に入っているのを知る(笑)。
2010年5月に新潮文庫。カバーも楽しい。
さてっと、文庫用のあとがきがあるのか、
解説があるのか、気になるなあ。
そんなことを思いながら、
単行本をとりだす。
せっかくなので、
そこから引用。
その第四章は
「変わりゆく日本語」。
「手紙、はがきをヨコ書きにするのは
ワープロ普及とともに始まったことだが、
年配の人たちの間ではなお抵抗がある。
現在、ヨコ書き前線は
五十五歳から六十歳に向かっている。
メールはもちろんヨコ書きである。
やがてヨコ書き前線は消滅するだろう。
そうなっても短歌、俳句は断乎として
立ち続けるのだろうか。
日本語を読むにはタテ書きが合理的であるが、
泣きどころは数字である。
なにごとによらず数字がものを言うようになり、
数字の使われることが多く、また、
大きな数字が多用される。戦前、萬という数は
日常的ではなかったが、いまはごろごろしている。
そういう数字をタテ書きするのが難しい。
・・・」(p134)
そういえば、
「日本語の作法」を読んだときに、
無性に手紙を書きたくなってきたことを
思い出しました(笑)。
うん。機会があったら、
文庫本も手元におこうかなあ(笑)。
2008年10月発行でした。
このあいだネット検索していたら偶然に
この本が文庫に入っているのを知る(笑)。
2010年5月に新潮文庫。カバーも楽しい。
さてっと、文庫用のあとがきがあるのか、
解説があるのか、気になるなあ。
そんなことを思いながら、
単行本をとりだす。
せっかくなので、
そこから引用。
その第四章は
「変わりゆく日本語」。
「手紙、はがきをヨコ書きにするのは
ワープロ普及とともに始まったことだが、
年配の人たちの間ではなお抵抗がある。
現在、ヨコ書き前線は
五十五歳から六十歳に向かっている。
メールはもちろんヨコ書きである。
やがてヨコ書き前線は消滅するだろう。
そうなっても短歌、俳句は断乎として
立ち続けるのだろうか。
日本語を読むにはタテ書きが合理的であるが、
泣きどころは数字である。
なにごとによらず数字がものを言うようになり、
数字の使われることが多く、また、
大きな数字が多用される。戦前、萬という数は
日常的ではなかったが、いまはごろごろしている。
そういう数字をタテ書きするのが難しい。
・・・」(p134)
そういえば、
「日本語の作法」を読んだときに、
無性に手紙を書きたくなってきたことを
思い出しました(笑)。
うん。機会があったら、
文庫本も手元におこうかなあ(笑)。