「詩集1977~1986 田村隆一」(河出書房新社)の
p118は、一行目が
「ご機嫌よう」となっておりました。
詩集「水半球」をとりだしてくると、
これはじつは、前のページの詩の最後の行なのでした。
p118の一行目が「ご機嫌よう」で
p119の最後は
「 きみの葬儀は
東洋英和女学院の
マーガレット・クレイグ記念講堂で行なわれた
ぼくは電報を打った―― 」とあります。
ついつい私は、たとえば
「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」村岡恵理著(マガジンハウス)
の年譜をひらいて確認しておりました。
1932(昭和7)39歳 娘みどり、誕生。
JOAK(NHKの前身)の嘱託となり、子供向けニュースの解説にあたる。
関屋五十二と交代で、『子供の新聞』というコーナーを担当し、
『ラジオのおばさん』として全国で親しまれる。番組の最後の
『ごきげんよう、さようなら』の挨拶が人気を博す
(昭和16年12月の太平洋戦争開戦まで)。
「ご機嫌よう」と村岡花子が学んだ
「東洋英和女学校」と結びつけて私は読んでおりました。
が、それは間違い(笑)。
田村隆一詩集「水半球」(書誌山田)を
今日は、本棚から取り出してくる。
ここは、一冊の詩集として読んだ方が
感銘を受けるだろうと思ったからでした。
そこに、「二度死んだ男たちへ」と
題して、二つの詩が並んでいました。
ひとつめは、「特権」という題。
ふたつめは、「要約せざるもの」という題。
ひとつめの詩の、最後の二行は
「 では
ご機嫌よう 」
ふたつめの詩の、最後の二行は、
「 要約されざるものよ、
また逢う日まで。 」
詩集「水半球」の詩の題と
「詩集1977~1986 田村隆一」の詩の題が
微妙に違っておりました。
このふたつの詩の題が
「1977~1986」のなかでは
前が
「特権 木原孝一くん」という題に
後が
「要約せざるもの 吉田満さん」という題に
どちらも名前が下にはいっております。
ちなみに、
田村隆一詩集「水半球」には
教科書などへ掲載された詩「木」が
はいっておりました。
ああ、この詩集にあったのだと、
そう、思いながらあらためて、
「要約せざるもの 吉田満さん」と
「木」とを並べて読んでいます(笑)。
ご機嫌よう
また逢う日まで。
p118は、一行目が
「ご機嫌よう」となっておりました。
詩集「水半球」をとりだしてくると、
これはじつは、前のページの詩の最後の行なのでした。
p118の一行目が「ご機嫌よう」で
p119の最後は
「 きみの葬儀は
東洋英和女学院の
マーガレット・クレイグ記念講堂で行なわれた
ぼくは電報を打った―― 」とあります。
ついつい私は、たとえば
「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」村岡恵理著(マガジンハウス)
の年譜をひらいて確認しておりました。
1932(昭和7)39歳 娘みどり、誕生。
JOAK(NHKの前身)の嘱託となり、子供向けニュースの解説にあたる。
関屋五十二と交代で、『子供の新聞』というコーナーを担当し、
『ラジオのおばさん』として全国で親しまれる。番組の最後の
『ごきげんよう、さようなら』の挨拶が人気を博す
(昭和16年12月の太平洋戦争開戦まで)。
「ご機嫌よう」と村岡花子が学んだ
「東洋英和女学校」と結びつけて私は読んでおりました。
が、それは間違い(笑)。
田村隆一詩集「水半球」(書誌山田)を
今日は、本棚から取り出してくる。
ここは、一冊の詩集として読んだ方が
感銘を受けるだろうと思ったからでした。
そこに、「二度死んだ男たちへ」と
題して、二つの詩が並んでいました。
ひとつめは、「特権」という題。
ふたつめは、「要約せざるもの」という題。
ひとつめの詩の、最後の二行は
「 では
ご機嫌よう 」
ふたつめの詩の、最後の二行は、
「 要約されざるものよ、
また逢う日まで。 」
詩集「水半球」の詩の題と
「詩集1977~1986 田村隆一」の詩の題が
微妙に違っておりました。
このふたつの詩の題が
「1977~1986」のなかでは
前が
「特権 木原孝一くん」という題に
後が
「要約せざるもの 吉田満さん」という題に
どちらも名前が下にはいっております。
ちなみに、
田村隆一詩集「水半球」には
教科書などへ掲載された詩「木」が
はいっておりました。
ああ、この詩集にあったのだと、
そう、思いながらあらためて、
「要約せざるもの 吉田満さん」と
「木」とを並べて読んでいます(笑)。
ご機嫌よう
また逢う日まで。