川名澄訳「新編イソップ寓話」(風媒社)の
解説と参考文献が、たのしい(笑)。
解説に
「ちなみに、十二世紀ごろに成立した『今昔物語集』の
『亀、鶴の教へを信ぜずして地に落ち甲を破れる語』(巻五・24)
が、イソップ寓話の『亀と鷲』とモチーフを共有することも
知られています。どうやら、古代インドの説話が
漢訳仏典を経由して日本に渡来したもののようですけれども。
意外なところでは、たいていのひとが知っている
『毛利元就の三本の矢』の逸話。
あれは実話ではありませんが、イソップの
『おとうさんと子供たち』という寓話にそっくりですね。」
(p167)
ということで、
参考文献には
柳田国男編「日本の昔話」角川文庫
『今昔物語 天竺・震旦部』池上洵一編、岩波文庫
とかの書物も並びたのしめます。
ところで、
柳田国男が対談で薦めていた本の一冊に
『沙石集』があったことが思い出されます。
少年少女古典文学館をみると
藤本徳明氏の解説文にこうありました。
「この『沙石集』の著者は無住という人で、
鎌倉時代の嘉禄2(1226)年に生まれ、正和元
(1312)年に85歳の長寿を全うしてなくなった。
先祖は鎌倉幕府のそうとうな地位の高い武将だったようだが、
一族が没落し、みなしごのようになったので、出家し、
いまの奈良県、京都府、神奈川県などあちこちの
宗派の寺院で修行して歩いたようである。
のちに、いまの名古屋市にある長母寺(ちょうぼじ)
の住職となって、ここで『沙石集』のほか、
『雑談集』『聖財集』などを書いた。
こういう人生の足跡は、無住の考えかたにも、
大きな影響をあたえているようだ。
一族の没落、みなしごに近い生い立ち、
諸国放浪、いなかの貧しい寺の住職
(名古屋市は当時、まったくのいなかだった。)
といった生きかたのなかで、無住は、
苦労人としてそだち、人間味あふれる
ユーモアの理解者となっていたものと思われる。
また、いろんな宗派の寺院で勉強したので、
鎌倉時代に強かった自分の宗派だけが正しい、
という考えかたには、とちらかといえば批判的であった。
鎌倉時代は、親鸞や道元、日蓮など、有名な僧侶たちが
多く活躍した時代である。この僧侶たちの考えかたは、
親鸞なら念仏、道元なら座禅、日蓮なら題目を尊重して、
ほかのものを否定する傾向が強かった。
同じ時代に行きながら、無住は、どのやりかたも
それぞれに意味があるのだから、
ほかのやりかたを否定してはいけない、
仏教だけでなく、神道や儒教もたいせつだと、
対照的な考えかたを示した。
現代の日本人の多くが、子どもが生まれると、
神道の神社に宮参りし、結婚式はキリスト教の
教会であげ、葬式は仏教の寺院でおこなうなど、
無住に近い、こだわりのない考えかたで
宗教をとらえていることは、興味深い。」(p330~334)
(講談社「少年少女古典文学館13古今著聞集ほか」)
ふ~ん。無住は「名古屋市にある長母寺(ちょうぼじ)
の住職」となって「沙石集」を出したのか。
そういえば、「新編イソップ寓話」を出した
発行所の風媒社の住所は
名古屋市中区上前津となっており、
訳者の川名澄は1960年名古屋生まれ。
とあるのでした(笑)。
解説と参考文献が、たのしい(笑)。
解説に
「ちなみに、十二世紀ごろに成立した『今昔物語集』の
『亀、鶴の教へを信ぜずして地に落ち甲を破れる語』(巻五・24)
が、イソップ寓話の『亀と鷲』とモチーフを共有することも
知られています。どうやら、古代インドの説話が
漢訳仏典を経由して日本に渡来したもののようですけれども。
意外なところでは、たいていのひとが知っている
『毛利元就の三本の矢』の逸話。
あれは実話ではありませんが、イソップの
『おとうさんと子供たち』という寓話にそっくりですね。」
(p167)
ということで、
参考文献には
柳田国男編「日本の昔話」角川文庫
『今昔物語 天竺・震旦部』池上洵一編、岩波文庫
とかの書物も並びたのしめます。
ところで、
柳田国男が対談で薦めていた本の一冊に
『沙石集』があったことが思い出されます。
少年少女古典文学館をみると
藤本徳明氏の解説文にこうありました。
「この『沙石集』の著者は無住という人で、
鎌倉時代の嘉禄2(1226)年に生まれ、正和元
(1312)年に85歳の長寿を全うしてなくなった。
先祖は鎌倉幕府のそうとうな地位の高い武将だったようだが、
一族が没落し、みなしごのようになったので、出家し、
いまの奈良県、京都府、神奈川県などあちこちの
宗派の寺院で修行して歩いたようである。
のちに、いまの名古屋市にある長母寺(ちょうぼじ)
の住職となって、ここで『沙石集』のほか、
『雑談集』『聖財集』などを書いた。
こういう人生の足跡は、無住の考えかたにも、
大きな影響をあたえているようだ。
一族の没落、みなしごに近い生い立ち、
諸国放浪、いなかの貧しい寺の住職
(名古屋市は当時、まったくのいなかだった。)
といった生きかたのなかで、無住は、
苦労人としてそだち、人間味あふれる
ユーモアの理解者となっていたものと思われる。
また、いろんな宗派の寺院で勉強したので、
鎌倉時代に強かった自分の宗派だけが正しい、
という考えかたには、とちらかといえば批判的であった。
鎌倉時代は、親鸞や道元、日蓮など、有名な僧侶たちが
多く活躍した時代である。この僧侶たちの考えかたは、
親鸞なら念仏、道元なら座禅、日蓮なら題目を尊重して、
ほかのものを否定する傾向が強かった。
同じ時代に行きながら、無住は、どのやりかたも
それぞれに意味があるのだから、
ほかのやりかたを否定してはいけない、
仏教だけでなく、神道や儒教もたいせつだと、
対照的な考えかたを示した。
現代の日本人の多くが、子どもが生まれると、
神道の神社に宮参りし、結婚式はキリスト教の
教会であげ、葬式は仏教の寺院でおこなうなど、
無住に近い、こだわりのない考えかたで
宗教をとらえていることは、興味深い。」(p330~334)
(講談社「少年少女古典文学館13古今著聞集ほか」)
ふ~ん。無住は「名古屋市にある長母寺(ちょうぼじ)
の住職」となって「沙石集」を出したのか。
そういえば、「新編イソップ寓話」を出した
発行所の風媒社の住所は
名古屋市中区上前津となっており、
訳者の川名澄は1960年名古屋生まれ。
とあるのでした(笑)。