和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

心残して。

2011-06-13 | 詩歌
雑誌「短歌」6月号を近くの書店で買いました。
高野公彦・栗木京子・岡野弘彦。
というページ順に読みます。
まあ、私は岡野弘彦氏の短歌を読めれば、あとはいいや。
ということで、最初は岡野氏の短歌より、


 海やまのせまる狭間にせぐくまり 
     幾世を生きし 一族(ひとぞう)の裔(すゑ)

 家も族(うから)も海(うな)底ふかく沈みたる
       なげきを伝へ 世々を生ききぬ

 わたつみの潮の八百路に沈み入り 
        帰るすべなくなりし 吾妻よ

 耐へしのぶこの国びとのかなしみに
     沁みてうれしき ドナルド・キーン氏

 心呆けて 愚かの歌もまじるべし。
      わが繰り言を ゆるしたまへな


 したたりて青海原につらなれる 
       この列島を守りたまへな


 身にせまる津波つぶさに告ぐる声
      乱れざるまま をとめかへらず


 この親に過ぎたる娘(こ)よとなげく父、
        水漬く屍は 月経てかへる



そういえば、5月9日読売歌壇の岡野弘彦選の最初の歌が思い浮かびます。


 大津波に身を挺したる女子アナウンサーに
          心残してわれら生きをり
       横浜市 松堂茂雄

選評】 防災無線の放送を最後まで続けた南三陸町の二人の職員。先日遺体が見つかった一人は二十四歳の女性だった。命を救われたその声は一生人々の耳に残ってゆくが・・・。



栗木京子氏の短歌も、すこし


 カップ麵の蓋押さへつつ思ひをり
      わが部屋に火と水のあること

 元気な方(はう)の涙が出たと
    合唱を聴きつつ言へり避難所の人

 選歌して食べて歩いて母訪(と)ひて
         余震の続く三月終はる


5月9日読売歌壇の栗木京子選の3首目

 立つ音も立てたる音も音すべて
    地震につながる気がして怖し
      二本松市 内藤四郎

選評】 作者は福島県北部に住む。余震が続く日々、「音すべて地震につながる」の恐怖はいかばかりであろうか。どうかお大事に。
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組織が動くか。

2011-06-12 | 短文紹介
佐藤優著「3・11クライシス!」(マガジンハウス・2011年4月28日発行)に、ある言葉を思い浮かべます。

「菅氏は特許事務所に勤務した後、市民運動家になり国会議員になった。海江田氏は新左翼系の小さな雑誌の編集部に勤務した後、経済評論家を経て国会議員に当選した。官庁や企業などの組織で働いたことがないので、どうすれば組織が動くかという内在的論理が皮膚感覚としてわからないのだ。危機に直面したときに、書類と携帯電話を持って走り回り、現場視察にこだわることがどれだけ危険であるかということがわからないのである。」(p216)
これは、2011年3月28日脱稿とあります。

ちなみに、この7ページほどの文「危機を乗り切るための指導者の技法とは」の最後は、

「菅首相の福島第一原発視察、東電本社への怒鳴り込み、政府関係者による東京消防庁職員への『速やかにやらなければ処分する』という恫喝などは、統帥の基本に反する異常行動だ。菅首相、海江田経産相のような、官庁や大企業で勤務した経験のない人でも、問題意識をもって『統帥綱領』や『統帥参考』・・などを勉強すればわかるはずだ。将来、日本のエリートになることを志す新社会人には、ぜひこの機会に指導者の技法について本をひもといてみてほしい。」(p219)


うん。この佐藤優氏の本をあらためて読んでみます。
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都心で震災直後。

2011-06-11 | 地域
「復興の精神」(新潮新書)と猪瀬直樹著「言葉の力」(中公新書)という新刊2冊を読みました。
猪瀬直樹氏の新書は前半p98ぐらいまで読めばそれでいいような気がします。
もう一冊は、9名の文。雑誌掲載のものと、書下ろしとあります。玉石混交。

猪瀬氏の新書にこうあります。
「・・・巷間流布されている速読術を僕は信用しない。速度とは文字を眼で追う速さでなく、読む価値があるかないかをつかむ速さである。この本は自分にとって読む価値があるかないか、参考になるかならないか、その識別が速いか遅いかであり、要らないなと思う本はページをぱらぱらとめくっていくうちに10分、20分で要らないと判断できる。必要だと思う本は速読の必要はない。じっくり読む。・・・」(p96)

2冊の新刊新書を読んでいたら、
そうだ、地震の時、私はどうしていたのだったっけ。と思ったりしました。
さてっと、その時。

養老孟司氏は
「東日本大震災が起こったときには、私は鎌倉の自宅に帰ってきたところで、まだ洋服も脱ぎきっていない状態でした。書斎に入ってすぐくらいに、ブログを更新していた秘書の山口さんが、『あ、停電』と言った。データが飛んでしまったので、『せっかくもう出来上がるのに』と文句を言っていました。揺れが来たのはその後です。」(p12・「復興の精神」)

茂木健一郎氏は
「2011年3月11日。私は、午後の空いた地下鉄の中で・・論文を読んでいた。・・・最後部車両の一番後ろで、手に持った論文に没入していた。電車が駅を出たらしい、ということはどこかで把握していた・・突然、加速していた電車がガクンと減速し始めた。何だろう?停止信号かな、と思った。やがて、電車が完全に止まる。後ろをふり返る。ホームの明かりが見える。まだ、ホームから出て間もなくのところで止まってしまったのである。・・訝しがっているうちに、車両が揺れていることに気付いた。ゆさゆさと、左右に、まるで巨人が揺さぶっているかのように振動している。ピー、ピー、ピーという警告音が、どこからか聞こえてくる。地震だ!それにしても長い。これはかなり大きな地震なのかな、と思っているうちに、今度はさらに一層激しく揺れ始めた。・・・それにしても、揺れが長すぎる。・・・やがて、運転手さんのアナウンスが入った。『ただ今強い揺れを観測しましたので、電車を緊急停止いたしました。これから、次の駅まで、時速15キロメートルで徐行運転いたします。』・・・『ただ今、地震による点検のため、全線で運転を見合わせております。この列車も、本駅でしばらく停車いたします。』・・・停車したのは、たまたまJR線との乗り換え駅だった。地上の鉄道も止まっていて、すでに多くの人が駅から出てきていた。その時、強い余震が襲った。みんな思わず地面の上にしゃがむ。電信柱が、まるでおもちゃのように揺れている。自動車も止まっている。周辺のビルの振動を、呆然と眺めているうちに、ようやく揺れは収まった。」(p40~41『復興・・』)
ちなみに、茂木氏のそのあとの本文は読む価値なし。

橋本治氏は
「なんの因果か、3月11日の大地震が発生する五カ月ほど前から、私は病人になっていた。四カ月近く入院して、大地震の一月前に退院したが、大地震の五日後にはまた短期で入院する手筈になっていた。私の病気は、毛細血管が炎症を起こしてただれるという面倒なもの・・・手足のしびれが抜けず、足の先なんかは、しびれの靴かブーツを履いているような状態になっている。・・・自分の体力が低下していることの方が、ずっとよく分かる。集中力が持続せずに、すぐに眠くなってしまう。・・・
その日の夕方、私は外で人と会う予定があったので、外出の仕度をしていた。そこに突然、激しい揺れがやって来た。・・ベッドに腰を下ろし、ガスの火が止めてあることや、電化製品のスイッチが切ってあることを確認した。揺れは長い。・・・目の前にある本棚が揺れている。立って、これを押さえにかかったが、無駄だと思ってすぐにやめた。立って、本やらなにやらで満載の棚を押さえ続けている自信がなかったのだ。ベッドに座って見ていると、棚からいろんな物が落ちはするが、棚自体は倒れない。別の棚からなにかが落ちて、ガチャンガチャンと割れている音もする。『こわい』というような気にはならず、『ああ、面倒臭い』と思いながらテレビを点けた。・・・」(p149~150)


猪瀬直樹氏は
「東日本大震災が起きた3月11日は一晩中、僕は帰宅困難者を東京都の施設にいかに収容するか、奔走していた。携帯電話は通じなかった。固定電話がときどきかかるぐらいである。都庁のエレベーターも停まっている。あらゆるインフラが一瞬にして機能停止状態に陥った。しかし、文章による通信は生きていた。ツイッターやフェイスブックなどソーシャル・ネットワークはさまざまなかたちで機能した。・・・・
大震災は、好むと好まざるとにかかわらずソーシャル・メディアの時代の到来を告げた。」(p7~8)
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その声はいまも。

2011-06-10 | 詩歌
毎日新聞の毎日俳壇の下。酒井佐忠氏の「詩歌の森へ」が連載されております。その6月5日を何げなく見たら、『現代詩手帖』6月号、高良留美子さんの詩をとりあげておられ。それが気になっておりました。
その詩には、「わたし」とあり、それが何でも「津波を擬人化した『わたし』」という視点から出来ている詩なのだそうです。
詩のはじまりは

あの女(ひと)は ひとり
わたしに立ち向かってきた
南三陸町役場の 防災マイクから
その声はいまも響いている

古新聞を読み直していて、あらためて、その箇所に気づいたというわけです。
産経新聞の「話の肖像画」。その4月20・21日は失敗学会理事長・畑村洋太郎氏へのインタビューでした。そこに、こんな箇所。

畑村】 だから災害の対策を立てるときは守る側で考えるのではなく、攻める側に立って考えなくてはならない。どこをどう攻撃したら福島第一原発の機能を奪えるのか。自分が地震や津波、山火事になって考えなくてはならない。そうするとすきだらけなのがよく分かってくる。


ちょうど、畑村さんの「攻める側に立って」出来上がった一篇の詩。とは、どんな詩なのか。一篇の詩を読むためには、1200円が必要でした。それは「現代詩手帖」6月号の値段。その雑誌が届きました。

詩のなかに、あの女(ひと)の言葉も引用されております。

「 ただいま津波が襲来しています
  高台へ避難してください
  海岸近くには
  絶対に近付かないでください  」

改行をはぶいて24行の詩の言葉。その最後の2行は

わたしはあの女(ひと)の身体を呑みこんでしまったが
  いまもその声は わたしの底に響いている  


え~と。雑誌「現代詩手帖」・1200円は、高い。
でもね。高良留美子の詩「その声はいまも」。
一篇の詩を、1200円で読めるならば、それは安い(笑)。

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地震津波の心得。

2011-06-09 | 短文紹介
地震津波の心得ということで、私に思い浮かぶ3冊。

山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)にでてくる、この箇所(p138~140)。それは1990年11月第一回全国沿岸市町村津波サミットでの、津村建四朗氏の言葉の引用箇所(以前ここで紹介しました)。

吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)のp151~152に
「県庁から『地震津波の心得』というパンフレットが一般に配布された」とあり、その紹介が箇条書きに並んでおります。

あと一冊は、畑村洋太郎編著「続々・実際の設計」(日刊工業新聞社・1996年)のp53~54。今回は、こちらをすこし引用。

「地震があり、そこが津波の危険地帯であれば、何をおいても、近くの標高の高い場所に避難する。時間的な猶予はない、警報を待つな、家族を探さずめいめいが勝手に逃げろ、ものを持って逃げるな、1時間は戻るな、というのが生き延びるための、先人が残した知識である。
 津波のような自然災害と、設計の失敗による事故被害とには、共通点がある、予期できずにある日突然に起こる、人の心構えや対処がまずいと被害が大きくなるという点である、我々は、未知のことについて、常に謙虚に仮想演習をしておかなければならない。」(p54)
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むすむすと(無言で)。

2011-06-08 | 古典
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)を、はじめて読みました。
東日本大災害がおこらなければ、読まなかったかもしれません。
感銘しました。それが何なのか?
とりあえず、最近の新聞の紹介記事を探してみました。

○産経新聞4月8日「吉村昭『三陸海岸大津波』の先見」
 これは文春文庫の解説を書いていた高山文彦氏の文。

○日経新聞夕刊5月11日「ベストセラーの裏側」に文庫の写真入で紹介されておりました。すこし引用。
「3・11直後から、版元には書店から注文が集まった。しかし『社内で検討して、派手な宣伝は控えることにした』と文芸春秋の村上和宏文庫編集局長は話す。災害の便乗商法はすべきでないという判断だ。吉村の妻で作家の津村節子にも同意を得たという。それでも注文は止まらなかった。・・・徹底した調査を淡々とした筆致で記述し、そこに地域住民への深い思いをにじませている。そんな吉村の『記録文学』への信頼感が震災後、一層高まっているようだ。・・・」

○朝日新聞5月8日「ニュースの本棚」。矢守克也氏が何冊かの本を紹介しながらの「巨大災害と人間」というテーマで書いておりました。その何冊かとりあげられた一冊での紹介。
「『三陸海岸大津波』、特に『明治二十九年の津波』を一読すると、今回の大津波と見まごう記述に満ちあふれていることに気づかされる。海抜50メートル近くまで津波が遡上した可能性、地震から30分間の行動が生死を分けたこと・・・。」

○朝日新聞5月15日「売れてる本」。佐々木敦氏がよく内容を掬い取って紹介の労をひきうけていると思えました。私は文庫の読後、この紹介文が一番よく響きました。ではそこから

「・・・『まえがき』にあるように、『津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にすぎない』という吉村氏が大津波のことを調べ、実際に災禍に遭遇した人々から話を聞くうちに、『一つの地方史として残しておきたい気持ち』になって著されたものである。資料と証言という『記録』に先立つ『事実』の集積を駆使しながら、他の吉村作品と同じく、筆致はあくまでも淡々としており、これみよがしな深刻さや、扇情的な生々しさからは程遠い。当事者ではなく研究者でもない。そればかりか、ここにあるのは、いわゆるジャーナリスト的な視線とも違う。ひたすら『事実』だけが語られていながら、かといって単に客観的な『記録』とは異なる、(誤解を畏れずに敢えて書くと)絶妙な距離感の、要するに『小説』的としか呼びようがないような印象が、本書にはある。・・・これは『記録=文学』なのだ。」


○産経新聞5月23日「吉村昭著『三陸海岸大津波』40年経てベストセラーに」(磨井慎吾)。そのはじまりだけ
「歴史小説の大家として知られる吉村昭さん(1927~2006)が約40年前に刊行した作品『三陸海岸大津波』(文春文庫)が、東日本大震災の発生以降、ベストセラーとなっている。文芸春秋によると、3月11日以降、15万部を増刷。妻で作家の津村節子さん(82)は、増刷分の印税を全額被災地に寄付している。『三陸海岸大津波』は昭和45(1970)年、中公新書で刊行された。明治29(1896)年、昭和8(1933)年、昭和35(1960)年の3度にわたり東北を襲った大津波を、丹念な現地取材でつづった記録文学だ。過去の惨禍を冷静なリアリズムの筆致で描き出し、『津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している』と説く警告の書でもある。・・・」


○産経新聞5月25・26日「話の肖像画」に「吉村昭と三陸海岸」と題して、津村節子氏へのインタビュー(上下)が掲載。


さて、私が文庫を読み印象深い箇所はというと「昭和八年の津波 子供の眼」。そこでの子供の作文でした。牧野アイ(尋常六年)の作文には「表へ出て見ますと、町の人々が何も言わないでむすむすと(無言で)山の方へ行くので・・」(p130)とありました。

この文庫を指摘した言葉に「筆致はあくまで淡々とした」記録文学とあります。「むすむすと」行く人々に、そのまま沁みこむだけの力をそなえ、それだけの懐の深さをたたえた文庫一冊。派手な宣伝は控えられているだけに、読みそびれる可能性があるので、この機会に、お薦めいたします。

インド洋大津波の際に、テレビの映像を見て驚きをあげていた私ですが、東日本大震災の前には、その映像をきれいに忘れておりました。今回の東日本大震災の津波に呑み込まれる映像が、そのままに吉村昭著「三陸海岸大津波」への理解を深め、この大津波で語られない深い箇所へとどく道筋を示しておられると思えるのでした。

ちなみに、小長谷有紀著「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)のp8にある
梅棹氏の言葉は、こうでした。

「現地で、実物をみながら本をよむ。わたしはまえから、これはひじょうにいい勉強法だとおもっている。本にかいてあることは、よくあたまにはいるし、同時に自分の経験する事物の意味を、本でたしかめることができる。」

1100年に一度といわれる東日本大津波を、同時代に経験し、それを後世に伝えるには、たとえ現地にはいけなくとも、文庫を読みながらでも「よくあたまにはいる」ということがあるのでした。そういえば、この梅棹忠夫の言葉は、「ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた」(勉誠出版)のp56でも繰り返されえいるのでした。
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感動の研究者魂。

2011-06-07 | 短文紹介
「ウメサオタダオ展」特別展解説書が届く。
本代1890円。発送手数料400円。合計2290円。
ちょいと、別冊「太陽」のような作りの一冊。
写真を見てもたのしめるし、読んでもよし。
国立民族学博物館ミュージアム・ショップへ注文してあり、
昨日発送。今日届きました。

なにか、読むのがもったいない(笑)。
話題をかえて、梅棹忠夫著「行為と妄想 わたしの履歴書」(中公文庫)に
「大震災」(p320~322)という箇所があるので、ちょいと引用。


「1995年1月17日の朝、わたしは風邪をこじらせて、この日はやすむつもりだった。しかし、毎日の習慣で早朝の五時には目をさまして、ベッドのなかでラジオをきいていた。そのとき猛烈な衝撃がきた。地震だった。・・・室内のあちこちでガラスのわれる音がした。・・食器類は全滅にちかかった。テレビやラジオによると、地震の被害は阪神間から淡路島にまで広範囲におよんでいるらしかった。やがて博物館の状況がきこえてきた。博物館も相当の被害があったようである。展示場のおおきなガラスが何枚もわれたり、スプリンクラーがこわれて展示場と階下の展示準備室が水びたしになったという。梅棹資料室は業績棚をはじめ、あらゆる棚から書籍や資料類がとびだして足の踏み場もないありさまで、ガラス製の応接テーブルも書籍などの直撃をうけてガラスが飛びちっていたそうだ。四階の教官研究室でも書棚がたおれ、ずいぶんの被害だったらしい。・・・梅棹資料室も床に散乱した本や資料類を棚にもどすのに10日ほどかかった。その間、わたしは風邪がなおるまで出勤をとりやめて、しばらく家にいた。
1月20日、ひさしぶりに博物館に出かけた。ちょうどその日に藤田和夫から電話がかかってきた。かれは地質学者で、いわゆる大阪層群の専門家だった。家は芦屋にあったが、大阪の断層研究資料センターを主宰して、阪神平野における活断層の活動の危険性から大地震を予言していた。かれは電話口で、いきなり『おれの学説は完全に証明された』といった。わたしが『家はどうやった?』と聞くと、『家はつぶれた』という。わたしは、かれのはげしい研究者魂に感動した。」
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上中下。

2011-06-06 | 短文紹介
昨日は、古新聞の整理。
というか、野田正彰氏の短期連載(3回・上中下)が終わったのでまとめて読もうと、古新聞を探しておりました。5月27日(中)と6月3日(下)はあったのですが、とうとう(上)を探し出せませんでした(笑)。
うん。こういうこともある。
(下)には、こんな箇所

「そもそも復興の基本方針は政府が迅速に出すべき仕事であり、超党派を偽装してマスコミの視点を幻惑させる復興構想会議なるものは有害無益でしかない。」

この連載は、産経新聞ですので、こんな、さりげない指摘も、朝日・毎日での原稿ならば、細心の注意でもって、没になるか、書き直しを指示されるんじゃないかなあ、などと、いらぬ心配。さかのぼって(上・中)を読んでみたいと思ったわけです。連載の題名は「悲哀に寄り添う」。
(中)は、こうはじまっておりました。
「震災から一カ月後、福島から宮城の沿岸を北上したとき、奥尻島、阪神、台湾などの震災のときと違って、悲しみが抑えられている、隠されているという印象を持った。」

そしてテレビ。
「NHKの女性キャスターが30分ほどの番組で、何度も『家をなくし、職をなくした被災者の方がた』を枕詞に使い、『家族を亡くした』と言わないのを奇異に感じた。ここでも、死別の悲哀は避けられていた。」

うん。被災地へと行かれた方にとっては、その臭いも消え、貴重なポイントは捨象され漂白されたりと、粗ばかりが目につくのだろうなあ。

さて、見つからなかった(上)には、どのような文が書かれていたのか。
とりあえず、探したのだから、ここまで。
そのうち、ひょっこりと読めたりするセレンディピティに期待。

ああ、そういえば、この頃の私は、本も後半から読み始め、ときどき、読みとばす章があったりします。というか、こういう風だと、読み終わっても、どこか未読の箇所が残っているのじゃないかという、不安定な感じが残ります。そうすると、どうしても、最初から最後まで順に読んだ時よりも、もう一度本をめくる確率が高くなる(笑)。
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サトケンさん。

2011-06-05 | 前書・後書。
オンライン書店ビーケーワンの新着書評欄(6月4日・5日)に、
サトケンさんの書評が掲載されておりました。
興味深かったのは、
国立民族学博物館(みんぱく)の特別展「ウメサオタダオ展」の図録を紹介しておられたこと。ふつうは、本屋で買えない図録を、BK1では買えないけれども紹介枠をもうけている。それって、ありがたいじゃないですか。それをサトケンさんが書評なさってるので、ボンヤリしている私など、どうにか気づかされたのでした。
まず、表紙画が見れ、それに図録に掲載されている「収録作品一覧へ」がチェックできる。ありがたい。その顔ぶれ(26名)を見て、さっそく民博図録販売へと直接注文。

そういえば、サトケンさんは、梅棹忠夫の最近の新刊の書評や地震・津波関連本の書評もかかれていてたいへん参考になります。それも、ありがたい。

以下は図録収録作品一覧の写し

みんぱくのご先祖さま 須藤健一 著
知の世界のプレイボーイ 石毛直道 著
新しい道を照らす人      鶴見俊輔 著
山と旅、知的人生の原点 平井一正 著
探検の神様      藤木高嶺 著
持続力、越境力、発見力 松原正毅 著
遊び心と知の殿堂      河合雅雄 著
ゆるやかな転身のはじまり 小長谷有紀 著
対論は吹きぬける風音のなかで  富田浩造 著
六十年今昔      末次攝子 著
「生態史」という世界を読み解く視座 山極壽一 著
自由なヴィジョン・メーカー 粕谷一希 著
勃興する第二地域と日本 宇山智彦 著
東と西のあいだ
文明は、動的平衡のうえで変化しつづける福岡伸一 著
民族学者梅棹忠夫の眼 梅棹忠夫 撮影
時代を先取る核心的女性論 妙木忍 著
「日本」を解明するための遠近法 熊倉功夫 著
「情報化」社会のゆくえ 長尾真 著
大人の学問、大人になるための学問 有馬真喜子 著
民博をつくる     佐々木高明 著
すべては船上の出会いから 加藤九祚 著
情報の整理と再構築の偉大な一歩 山根一眞 著
知的生産のはるかな道のり 小川壽夫 著
「共同研究」というもの 加藤秀俊 著
文化装置のプランナー 端信行 著
知的生産はやまなかった 小山修三 著
「暗黒のかなたの光明」を求め苦闘した時代 小池信雄 著


さてっと、図録を注文して待つ間のたのしみ。
ありがとうございます。サトケンさん。

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風化し易い災害。

2011-06-04 | 短文紹介
山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)を読み終えました。
後半から読み始め、残りの前半へとランダムに読みすすめておりました。
この頃、最初から読めなくなっているなあ。
さてっと、
「津波は災害間隔が比較的長く、そうたびたびは襲来しない代わりに風化し易い災害でもある。」(p77)という言葉がありました。
筆者ご自身はというと、
「昭和三陸津波(1933)を体験したのは小学校三年生のときだが、同様、家族ばらばらで、七人兄弟の末っ子だったが、両親も兄たちも、誰も手を引いてはくれなかった。そのため否応なしで一人で逃げ、雪道を裸足で山まで駆け上がっている。後で聞くと、友だちの多くもみんな同じことだったらしい。助かろうと思ったら子どもでもそうせざるを得ないのである。・・・」(p223)

この「津波てんでんこ」には、
「1983(昭和58)年の日本海中部地震津波のとき、秋田男鹿半島の加茂青砂海岸では、いきなり津波が押し寄せて来たために逃げる余裕がなく、痛ましくも遠足中の小学生13人が死亡している」(p18)
という事件のことが、丁寧に数箇所繰り返されておりました。
そこが気になります。ほかにはp126・p147と、まだ他の箇所にも登場したような気がします。この本の重要なリフレインとなっておりました。

あとp138~140にある1990年11月8日「全国沿岸市町村津波サミット」講演録の引用が印象に残ります。津村建四朗氏の講演の引用でした。氏は「大津波を体験した一人・・広村(現広川町)出身で、後に東京大学地震研究所を経て気象台長などを歴任した・・地震学者」。
では以下その引用。

「気象庁在職中のこと・・・住民を前にして行った、職業柄、教訓を織りまぜての貴重な体験談を聞いたことがあるのでつぎに紹介する。
『みなさん、津波を発生させる恐ろしい地震と、そんなには恐ろしくない地震の見分け方をお教えしましょう。ぐらぐらといつまでも揺れつづけている地震が海底で起こった場合は津波が発生する恐れがあると考えて下さい。私が子どもの時分に体験した昭和の南海地震は物凄い地震で、しかもかなりの時間、揺れつづけていました。揺れ自体は、五分後くらいにはおさまり、その後、非常に静穏な時間がありました。『大地震があたら逃げろ』と教えられてはいましたが、やはりその時点では逃げなかったのです。その後、深閑とした時間が十五分くらいあり、余震もあまり感じられませんでした。そのうち沖からゴーッと凄い音がしてきました。近所の人が「津波だ!」という叫び声をあげました。その途端「逃げろ!」という感覚がよみがえってきました。冬の午前四時二十分ですから、真っ暗です。しかし地元ですから、どの道をどう行けば八幡さま(避難場所)への最短コースかは分かっていました。みなさん、家族そろって避難するという訓練をやっておられるかも知れませんが、実際に暗闇の中で津波が押し寄せて来るという状態の中では、家族そろって避難するなどということはまず出来ません。ですから、今、考えると、一人ひとり、子どもに至るまで、一人で逃げのびる方法を教えておくべきだったと思っています。私も路地を必死になって逃げました。家族ばらばらになり、早い者勝ちで逃げました。・・・・」

まだつづくのですが、まだ肝心な箇所があるのですが、このくらいにしておきます。
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未読再読山下文男。

2011-06-03 | 短文紹介
山下文男(やましたふみお)氏の「津波てんでんこ 近代日本の津波史」(新日本出版社)をひらいているのですが(今日は読んでない)。本の最後の紹介文に
「1924年岩手県三陸海岸生まれ。現在、大船渡市綾里地区在住(ちなみに、この本は2008年初版となっております)。明治の三陸津波で一族9人が溺死。自らも少年時代に津波や東北大凶作を体験。」とあります。

いま読む本だと思いました。
ちなみに、本棚を見ると、山下文男氏の著作が数冊ありました。

  「君子未然に防ぐ  地震予知の先駆者今村明恒の生涯」(東北大学出版会)
  「津波の恐怖 三陸津波伝承録」(東北大学出版会)

だいぶ以前に読んで、忘れておりました。
ほかに未読本では

  「津波と防災 三陸津波始末 」(古今書院)
     ( シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ 第2巻 )
  「津波ものがたり」(童心社)


東日本大震災の映像が鮮やかな残像としてある、
この時期に、読むとより理解がすすむ本として山下文男の著作あり。
そう「津波てんでんこ」をひらきながら思うのでした。
ということで、未読再読山下文男。 
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世論調査と私。

2011-06-02 | 短文紹介
昨日は、山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)をめくっていました。まだ後半を読んだだけなんですけれど。たとえば、1964年の新潟地震について書かれた箇所など、こんな普通の箇所が、今読むとわたしには興味深いのでした。

「・・この津波の後、・・・実施した被災地での世論調査によると、例えば、津波警報を聞いて、大きな津波が来ると思ったと答えた人は9.9%、津波が来るとは思ったが、それほど大きな被害をもたらすとは思わなかったが50%、津波が来るとは思わなかったが39.5%も占めていたという。要するに90%近くの人々が、たいした被害にはならないとか、実際には津波は来ないだろうと考えていたのであった。・・」(p184)

ところで、
注文してあった古本がとどく。
文芸春秋の「人と思想」シリーズの一冊。
清水幾太郎著「人間を考える」。
そこに、「見落された変数」が掲載されておりました。
あと、清水幾太郎著「日本の運命とともに」(河出書房)。
ここには、昭和26年3月立教女学院生徒会に掲載された「巣立ち」が載っておりました。2ページほどの文なのですが、清水幾太郎の文では、私は短い文が好きなんだよなあ。ただし短い文しか読んでいないのでした(笑)。すこし「巣立ち」から引用しておきます。


「・・・私はみなさんと同じ年頃に、あの関東大震災に遭いました。私の家は潰れ、そして焼け、私達は、文字通り、無一物になってしまいました。当然のこと、私の父や母は非常に力を落しましたが、私は、私だけは、奇妙な元気を自分の身体の中に感じていました。どうして私はあんなに元気であったのか、これは今でも納得できません。しかし、それは恐らく私が若かったためでしょう。・・・あれから二十何年、私は私なりに、一筋の道を歩いて来ました。みなさんと同じ年頃の日に抱いた夢を追って歩き続けて来ました。東京の焼跡に立って感じた新しい力に押されるままに、私は今日まで生きてきたといえるようです。青春を失うものは一生を失う、と申しますが、私は必ずしも青春を失わなかったのだと考えています。二十何年後の後、再びみなさんは東京の焼跡に立っています。・・・・」
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安心・安全。

2011-06-01 | 短文紹介
安心・安全といえば、安全と水という連想で、思い浮かぶのは、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」でした。まあ、それはそれとして、新聞雑誌を見ていると、「安心・安全」について思いをはせることになります。
たとえば、産経新聞5月27日一面「小さな親切、大きなお世話」の曽野綾子氏の文に

「・・・私は私の人生で、かつて一度も、安心して暮らしたことはない。今一応家内安全なら、こんな幸運が続いていいのだろうか。電気も水道も止まらない生活がいつまでできるのだろうか、私の健康はいつまで保つのだろうか、と、絶えず現状を信じずに暮らしてきた。
何度も書いているのだが、安心して暮らせる生活などというものを、人生を知っている大の大人が言うものではない。そんなものは、地震や津波が来なくても、もともとどこにもないのである、アナウンサーにも、最低限それくらいの人生に対する恐れを持たせたいと、お子さま放送局みたいになって、聞くに堪えない軽さで人生を伝えることになる。・・・」

曽野さんといえば、VOICE6月号の連載「私日記」の文章の最後には、こうあります。

「・・私は書き下ろしで、東日本大震災のことを書き続けている。私にとっては、地震も津波も原発の事故も、『安心して暮らせない』社会ということで一つのテーマになっていたので、心の中のもやもやを書いて整理する必要を感じていた。事故が起きてやっと、それ以前の日本は夢のようないい国だったとわかったのである。」

ところで、VOICE6月号にはロバート・キャンベル氏の文が掲載されております。そこにも「安心・安全」への言及がありました。

「日本は歴史的に災害に遭ってきたけれども、ここ六十年ほどは平和が続き、『安心・安全』が共同体を束ねる紐帯(ちゅうたい)になっています。これは日本特有で、欧米では『安心・安全』は、それほど積極的な価値としていわれません。さらに、じつは江戸時代には『安心』という言葉自体がなかったのです。この現代の状況に、私は若干、不安を覚えます。これだけ『安心・安全』といわれてしまうと、無菌状態になって、社会が衰弱するのではないかと思うのです。・・・・
『安心・安全』は、ある意味、人間を善意で騙してしまうフレーズです。そこで思考がストップしてしまい、もっと大きなリスクを、そこで背負わせてしまうかもしれません。いま私たちはいったん立ち止まって、社会のあり方について、再点検してみてもいいのではないでしょうか。」(p171)

『安心・安全』という言葉にたいする姿勢が、ここにはある。
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