和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

それにもかかわらず。

2020-08-16 | 古典
講談社学術文庫・「正法眼蔵(一)」増谷文雄全訳注。
はい。いつか読もうと思っていたのに、
いつまでも、本棚で埃をかぶっておりました。
あらためて、スタートラインにもどって、
読み始めたいと思う。

さて、この文庫「正法眼蔵(一)」には、
最初に、息子さん増谷松樹氏の「学術文庫版刊行に当たって」
という6頁の文。また最後には増谷文雄氏の「道元を見つめて」
とあと一文が載ってるのでした。
うん。あらためて「道元を見つめて」を読んでみる。
そのはじまりは

「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
もしくはその流れを汲む曹洞宗門に対しては、
明らかに門外の漢である。だが、門外にありながらも、
わたしはたえず道元禅師を見つめてきた。
しかるに、ふと眼を挙げて、今日の道元研究の様子を見れば、
そこではすでに、遠く宗門の枠を越えて、広くかつ深い、
追求もしくは傾倒が行われていることが知られる。・・・・」

すこし端折っていきます。

「わたしが初めて道元禅師の著作に触れたのは、・・・
大学の学生であった最後の年の夏のことであった。
その頃はまだ岩波文庫本の『正法眼蔵』などもない時代のこと
であったので、同じ市(小倉)の曹洞宗の寺にいって
『承陽大師全集』という古めかしい本を拝借し、
一夏かかって一処懸命に『正法眼蔵』を読み通した。
真夏のことであるので汗がしきりと背中を流れ下る。
それを今でも印象深く憶えている。だが、その時に読んだ
『正法眼蔵』は、わたしにとっては全く理解できないもの、
わたしの思考の歯にはとても咀嚼しがたいものであったことを
告白しなければならない。それにもかかわらず、
なにかしら強くその著作にひきつけられて、
それから今日にいたるまで、わたしはその著作を中心として
道元禅師を見つめてきた。本年わたしは71歳であるから、
それから指おり数えてみると、なんと48年になるのである。」

はい。この文庫には各巻のはじめにまず「開題」をおき
増谷文雄氏が、その巻の紹介をしてから短く区切って
原文。現代語訳。注解の順ですすみます。
「開題」に導かれて、わたしなど各巻の開題だけ
ひらいて見ておりました。
それっきり、本棚にしまい込んでいたのでした。
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』へ
チャレンジの再スタート。

はい。再スタートをくりかえすとき、
自分におまじないの詩が浮かびます。

      紙風船   黒田三郎

  落ちて来たら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く
  何度でも
  打ち上げよう

  美しい
  願いごとのように


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本棚の隅で埃をかぶって。

2020-08-15 | 古典
はい。夢をみようと本を買う、
けれども、買っても読まない。
夢は夢のまま本棚に眠ってる。

たまに、本棚からとりだす。今回取り出したのは、
増谷文雄訳「正法眼蔵①全訳注」(講談社学術文庫)
全8巻で、その一巻目。文庫本には息子さんの
増谷松樹氏がはじまりに文を載せておりました。
「2004年1月カナダにて」とあります。
うん。そこだけを引用してみます。
父親がカナダに訪ねてくる場面からはじまります。

「・・・はるばる訪ねてきた。私は驚いた。
父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
机の前に正座して原稿を書いているもの。そして、
それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。

その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
『現代語訳 正法眼蔵』を完成したところであった。
・・・多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は
現代語訳であった。仏教を現代人のものとすることを、
課題としていたからである。・・・・・

散歩に行くと、母とふたりで颯爽と歩いた。・・・・
そして、毎日のようにうった碁でも、めったに勝てなかった。
父は心身ともに充実しきっているように見えた。
さかんにアクメという言葉を使った。
人生の最盛期という意味であるという。人には、それぞれあって、
若いときにアクメを迎えるものも、老いてからアクメを迎えるものも
いると、しきりに話した。・・・・・


父は1987年に他界した。その後、『(正法)眼蔵』を
開いてみたことはなかった。父の『眼蔵』は、
本棚の隅で埃をかぶっていた。それを、再び読んでみた。
みるみるうちに、私の心の風景が変わっていった。
人生をさすらっているような気持ちが消え、
まるで放蕩息子が父の家に戻ってきたかのように、
心が安らぐのを覚えた。
どうやら、私が好きであろうと嫌いであろうと、
そんなことを越えて、私の精神は否応なく
『眼蔵』の世界につながれているらしい。

・・・・・実際に読んでみると、
道元の文は、ひらがなも多く、明晰で解りやすい。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり』(現成公案)
これは、仏道の目的を一言のもとに定義した言葉である。また、
『山をのぼり河をわたりし時にわれありき』(有時)
・・・・」

はい。この講談社学術文庫『正法眼蔵(一)』には
ちょうど、現成公案も有時もはいっております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田三郎の夢。

2020-08-14 | 詩歌
黒田三郎の詩に「あす」があります。

   あす  黒田三郎

 うかうかしているうちに
 一年たち二年たち
 部屋中にうずたかい書物を
 片づけようと思っているうちに
 一年たった
 昔大学生だったころ
 ダンテをよもうと思った。
 それから三十年
 ついきのうのことのように
 今でもまだそれをあす
 よむ気でいる

 自分にいまできることが
 ほんの少しばかりだとわかっていても
 でも そのほんの少しばかりが
 少年の夢のように大きく
 五十歳をすぎた僕のなかにある


はい。わたしもダンテの神曲は読んでいない。
ということぐらいかなあ、共通点は(笑)。

黒田三郎の年譜をひらく
大正9年(1919)生まれ。
昭和55年(1980)1月8日死去。61歳。

はい。わたしは65歳から年をとっておりませんので、
『少年の夢のように大きく
 六十五歳をすぎた僕のなかにある』と年齢を入れかえる。

うん。50歳をすぎても、60歳をすぎても
『少年の夢のように大きく』という少年が住む。
なんてことを何でまた、
夏のお盆のころになって、そんなことを思うのか?

ということで、黒田三郎詩集を本棚へもどす。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋野不矩とインド。

2020-08-13 | 京都
「ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり」
(淡交社・2000年)は中村勝の文・甲斐扶佐義の写真。
町のさりげない人たちの写真にまじって、
今出川寺町付近を散歩する桑原武夫(1978年撮影)。
文は「桑原武夫さんの散歩自慢は・・・・・
自宅の近くをお孫さんと散歩する・・・・
甲斐さんが『ほんやら洞』を根城に、
出町かいわい撮りまくっていたころの一枚だ。
このころ、甲斐さんは『京都出町』という写真集を出し、
桑原さんに贈ったところ
『まあ、よう撮れとりますが、出町の
しねっとしたところが撮れとらんですな』
と評されたそうだ。・・・」(p106~107)
はい。桑原さんは半袖姿で、お孫さんはランニング姿。
夏の一枚ですね。つぎのページには
『出町附近、秋野不矩さん』の写真。
横断歩道を手をとられて二人して渡っています。
着物姿で、手をとられているのか、手をとっているのか、
颯爽と歩いています。

夏には、秋野不矩さんのインドの絵が思い浮かびます。
ということで、京都書院の『秋野不矩インド』(1992年)を
本棚からとりだしてくる。最後の方に
「秋野不矩 1992年夏美山にて」という写真。
不矩さんの着物の立ち姿。
最後に小池一子さんのあとがき。
そのはじまりを引用。

「秋野不矩さんの新作が仕上がり、京都のお寺の本堂で
撮影を行うことになった。不矩さんの6番目の息子さんが
ご住職なので、山のアトリエから作品がそこへ運ばれ・・・・

不矩さんの描いているインドがある。人のいない空間。
雨雲。河。河を渡る水牛。身辺の風物がさーっと退き、
不矩さんはズーム・バックするような目で
インドという地表を描いている。・・・・・」

うん。この画集には、はじまりに司馬遼太郎の自筆を
写真撮影した『菩薩道の世界』が、推敲の跡そのままに
掲載されていて印象深い一冊です。
ということで、司馬さんの文を引用

「世界の絵画のかなで、清らかさを追求してきたのは、
日本の明治以後の日本画しかないと私はおもっている。

いきものがもつ よごれ を、心の目のフィルターで
漉(こ)しに漉し、ようやくと得られた
ひと雫(しずく)が美的に展開される。
それが日本画である。その不易の旗手が、
秋野不矩画伯であるに相違ない。
秋野絵画は上村松園の血脈をひいていると私はおもっている。
詩的緊張が清澄を生むという稀有の系譜である。

画伯は、京都芸大教授であったころ、
インドのビスババーラティー大学にまねかれて、
客員教授になられた。以後、インドに魅かれるようになった。
・・・・・」


うん。暑いときにひらく画集「秋野不矩インド」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒山拾得と手紙。

2020-08-11 | 手紙
京都国立博物館の図録「海北友松」(平成29年)。
古本で購入したら、チケット半券がはさまってる、
2017年4月11日~5月21日開館120周年記念特別展覧会
と入場券の半券にありました。

さてっと、この図録をパラパラひらいていたら、
寒山拾得の図に、今回は興味を持ちました。
二人して庭らしいところに立っております。
一人は巻紙をひらいて、挙げた左手から下の
右左手までU字形に巻紙が広げられています。
その巻紙を見ながら笑っています。
もう一人は、その人の肩に左手を置いて、
右手は庭箒を支えて、同じく巻紙を見ているようで、
いっしょになって笑っています。


この図録をひらいていると、
二人して巻紙を見ている構図が
しばしば印象的に現れてくるのでした。

そうこうしているうちに思い浮かんだのは、
戦場カメラマン・一ノ瀬泰三の写真でした。

私に思い浮かんだのは、夫婦を撮った写真のようでした。
二人して土間のようなところに座っています。
向って左側に夫が座りながら手紙をひらいて読んでいる。
腕の間に杖でも傾けるように、戦場ライフルのような拳銃を
右肩に立てかけ寛いでいます。妻は隣に座って頬を夫の肩に
近づけながら手紙をのぞき込んでいます。
夫は手紙を読みながら笑ってる。
妻は、殺伐な状況のなかで、切れ切れな感情をどう結びつければ
よいのかもわからないままに、夫の笑いを笑っています。
その手紙は、どうなのでしょう。子からの消息なのだと思えてきます。
うん。ネット検索だと、簡単にこの写真は見れます。

海北友松の寒山拾得の図をみていたら、一ノ瀬泰三のこの写真が
思い浮かびました。そうすると、どうしてもわたしには、
寒山拾得図の巻紙が、手紙なのだと思えてくる。
すると、寒山拾得二人の笑が身近に感じられます。

うん。こういう笑いを思い描いてしまうと、
もう、イヤ味な手紙は書けなくなります(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

67歳など駆け出しの若造。

2020-08-10 | 京都
講談社「水墨画の巨匠④友松」(1994年)。
海北友松の絵をパラパラとひらいていたのですが、
ここに執筆されている杉本苑子氏の文を
今日初めて読んでみる。杉本苑子さんの文を
いままで一度も読んだことがない。
それで敬遠してたのかもわかりません。
けれども、読めてよかった、海北友松の縁ですね(笑)。

いろいろと教えられることばかりで、
前に引用した箇所など訂正がいるのですが、
ちょっと、まどろっこしいのでカット。
60歳をすぎてからの海北友松を語った箇所を
ここに、引用することに。

「兵火にかかって衰微していたこの寺の再建に・・・・
建仁寺再建のプロジェクトチームにメンバーとして加え・・・
友松筆の襖絵は52面にものぼる。時間の都合で、半分ほどしか
拝見できなかったけれど、絵の巧拙や好き嫌いの感情を超えて、
私を圧倒しつづけたのは作品の大きさであった。
画境や筆力の丈を言うのではない。文字通り寸法の大きさに
息を呑んだのだ。空間を仕切り、演出する襖は、
開け閉めに従って動き、静止する。
敷居から鴨居までの面積を縦に埋め、
部屋の四面を横に囲むのだから、一枚一枚はもとより、
ひと部屋全体の占有量はとてつもなく広くなるし、
動と静のもたらす視覚からの効果も、
グローバルに見ながら描かなければならない。

この絵画群の制作に当ったとき、友松は67歳だったという。
私(杉本苑子)はいま68歳である。・・・・・

67歳にして建仁寺本坊の巨大空間を、雲を巻く双竜で、
縹渺たる山水で、緊密精緻な人物たちで、生気溌溂たる孔雀で、
事もなげに埋めつくしてのけた友松のエネルギーに、たじたじしたのだ。
・・・私は若者を羨んだことはないが、友松の若さは切実に羨ましかった。

でも、博物館(京都国立博物館)を出てから気づいた。
六十代の友松は、しんじつ若かったのだ。41歳で彼は還俗し、
絵の勉強をはじめて、60歳ごろから一本立ちした。
60を半ば過ぎたあたりで本格的に世に認められ出したのである。
友松みずからは『六十七歳など駆け出しの若造』と思っていたに
ちがいないし、じじつデビューから7年では、まだ画歴は浅い。

・・・・・いかに大器晩成型とはいえ、なんと友松は83年の生涯の、
最晩年に近づいたころあのダイナミックな『花卉図屏風』を描いたのだ。
おどろくべき創作意欲、そして旺盛な生命力・・・・。
まさしく世阿弥の言う『老い木の花』である。・・・・」


はい。読めてよかった(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都の庭に惹かれる?

2020-08-09 | 京都
水上勉氏による天龍寺の解説を読んでいたら、
そこに「夢中問答」からの引用があったのでした
(「古寺巡礼京都④天龍寺」淡交社・昭和51年)。

うん。気になったので、古本で
岩波文庫のワイド版・夢窓国師「夢中問答」と
講談社学術文庫「夢中問答集」とを注文する。

それはそうと、この機会に思い出した本がありました。
本棚から上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年)を
とりだす。うん。昨年の台風15号のせいで、新書の下のほうが
すこし水を吸っておりました(笑)。
この新書の帯に「なぜこれほど京都の庭に惹かれるのか」とあります。
うん。新刊で読んでそのまますっかり忘れておりました。
新書の「はじめに」を引用することに

「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカの友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や竜安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問をしてきた。
『日本人は、仏さまより庭が好き?』
『なぜ?』 と問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている‥』

・・・・いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない・・・

・・・・どうこたえたらいいのか、とかんがえているうちに、
同情するようにかれはつけくわえた。
『わたしたち外人もいっしょ、仏さまより庭が好き。
仏さまはたいていおなじ顔をしているが庭はみなちがう。
どうして石と砂だけの庭があるか。そんな庭は世界中、
日本にしかない。しかも日本の庭は美しいだけではない。
さっき見た庭の石はなにか話している。
近くの石はそっとささやく。向こうの大きな石は演説している。
遠くの石は歌をうたっている。それらにはシンフォニーがある』
・・・・・」(p9~11)

はい。新書「庭と日本人」は、このようにはじまるのでした。
うん。はじめて読んだ時の印象は鮮やかだった。
それなのに、今はすっかり忘れておりました。ちなみに、
新書の「むすび」、バルコニーの話も印象に残っております。

はい。京都を思い描きながら、庭に関する数冊が
むすびついてくるような気がしてきました(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一歩手前で立ち止まって。

2020-08-08 | 京都
世界文化社。グラフィック版「徒然草・方丈記」(1976年)は
函入りでしっかりした本。
古典としての、方丈記・徒然草は有難い。
この本は表紙見返しの、きき紙と遊びの両面に、
方丈記の長明の自筆本といわれている大福光寺本の
はじまりが写真でプリントされており、うれしくなります。

カタカナ漢字交りですが、読もうとはちっとも考えず、
そのまま、ボーッとして鑑賞していたくなるのでした。
見開き両ページで44センチ×高さ28センチですから、
方丈記の門前に立ったような、そんな気分です(笑)。

さて次の口絵は、前田青邨の「つれつれ草」。・・・
そうして、徒然草絵巻「世の人の心まどはす事」海北友雪筆
その次は、「御輿振り」前田青邨筆。

「御輿振り」は、青邨の絵巻の一部で、橋の下から
上を通ってゆく御輿を見ている庶民の姿を描いた箇所でした。

うん。その前田青邨の絵巻きが、古い絵巻の中にまじって
載せられているせいか、新鮮で現代的な溌溂さを感じさせ、
印象的です。まるで絵巻の人物が現代語で喋っているようです。

加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社1992年)に、
「前田青邨展を見て」と題する3頁ほどの文があります。

そこから引用。

「・・・生々発々の情景を描いて、しかも描く
その墨線はゆるやかに静かであって、決して走ってはいない。
走りつつ歴史というものは語ることができないからである。
色彩はかなり淡く浅く、その淡さを幾重にも積みかさねて
古代中世のこまやかな味を出している。人間の歴史も自然の存在も
また淡く浅いものが積もり積もって成ったものだと、ここに氏は
描き出してみせてくれている。そして、われわれ平均的な生活人も
この堆積の描写には十分納得がいくのである。・・・・・

これだけの抑制と制御を加えながら、それにしても、
この作者の精神の何と活発なことなのだろう。
活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく制御がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。・・・・」(p295~296)

うん。しろうとの私が京都の絵を見て感じる
漠然とした「淡く浅い」ことによる物足りなさ、動作の一瞬が
さりげなさ過ぎるのじゃないか思いてしまう感じ、というのは、

加藤一雄氏によれば
「活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく抑制がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。」

と読みかえることができるのでした。
うん。だいぶ誇張と過剰とに毒されているかもしれないのだ、
と私の立ち位置を教えてくれているようです。

そうか、こうして京都画壇の絵を観賞してゆけばいいのだと
細やかな絵画への水先案内人に出合ったことのよろこび。

おっと忘れるところでした。
この短文「前田青邨展を見て」のはじまりも
最後に引用しておきます。

「『青邨展』をみてその印象をひと言でいうと、
それは歴史の面白さに堪能したということである。

わが国の古代中世人の生き方がありありと描き出されているし、
彼らの笑い声や泣き声までがそこに聞こえてくるような気がする。

そして、ついに大きく静かな自然が深々と彼らの上に覆いかぶさって
くるという鎮魂の譜までがまた余すところなく描き出されている。

絵というものはひっきょう絵空事ではあるものの、絵空事である故に、
その描き方、語り口によっては見事な別世界にわれわれを誘ってゆく
力を持っているものである。その力を使う鍵ともいうべきものを
青邨氏は十分にもっておられるらしい。・・・・・」(p294)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとつだけでは、多すぎる。

2020-08-07 | 本棚並べ
今日の産経新聞一面に「外山滋比古さん死去」の見出し。
「96歳・英文学者、正論メンバー」と小見出し。
「7月30日午前7時18分、胆管がんのため東京都内の病院で
死去した。96歳。愛知県出身。・・・」

うん。亡くなったのだ。
晩年のエッセイを、古典落語の志ん生の高座を
聴いているような気分で読んでおりました。
同じ話でもどこか新鮮な箇所があったりする(笑)。

本棚から「思考の整理学」(ちくま文庫)を出してくる。
パラパラとひらきながら引用してみます。

「論文を書こうとしている学生に言うことにしている。
『テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、
二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい。』

きいた方では、なぜ、ひとつでは『多すぎる』のか
ぴんと来ないらしいが、そんなことはわかるときになれば、
わかる。わからぬときにいくら説明しても無駄である。

ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。
これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。
妙に力む。頭の働きものびのびしない。ところが、もし、
これがいけなくとも、代りがあるさ、と思っていると、気が楽だ。
テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。
さて、どうれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から
近づいてくる。『ひとつだけでは、多すぎる』のである。」(p43)

『セレンディピティ』の効用も、外山滋比古氏に教わったのでした。

「昔の学生が訪ねてきて、脱線の話がおもしろかったと言う。
教師としては複雑な気持ちになる。・・・・・だいたい、
学生というものは、授業、講義のねらいとするところには
興味をもっていない。年がたてば忘れてしまうのは当然。
・・・・それに比べて脱線には義務感がともなわない。
本来は周辺的なところの話である。それが印象的で
いまでも忘れられないというのは、教育における
セレンディピティである。教室は脱線を恥じるには及ばない。

それは学生のことだが、教師にとっても、脱線した話を
しているうちに、それまで、一度も考え及ばなかった問題が、
ひょっこり飛び出してきて、あわてて、話を停止して、
ノートのはしに心覚えを書きつけるということもある。
脱線がいつもそうだというのではないが、
時にはセレンディピティをもたらしてくれる。
教師も脱線を遠慮するには及ばないのである。
われわれは、そういう気楽な話のうちに多くのことを
自からも学び、まわりのものにも刺激を与える。」(p70~71)

はい。教師の脱線話が好きだという下地があるせいか、
私は司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」なんて本に、
ついつい、興味をそそられるのかもしれないなあ。

あとは、外山滋比古氏と図書館ということが思い浮かびます。
ちょっとひらいた本からの引用。

「東京文理科大学の学生になり、戦争中のことだから、
たえず勤労動員で重労働をさせられたが、勤労も授業もないと、
かえって向学心が高まる。英文科には大学図書館とは別に
図書室があり、専門書が数千冊並んでいた。ここに
ケンブリッジ学派といわれる学者たちの、当時としては
最新の文学研究所が揃っていた。文学概論、批評論理などでは、
当時、日本でこれにまさる蔵書のあるところはなかっただろう。
私たちが学生だったころすでに亡くなっていた
山路太郎という助手が、ケンブリッジ学派の俊足であった
W・エンプソンの日本における最高の学生だったからである。
私はここで、文学理論、批評関係の本を読みあさった。
私がその後した仕事の源はここにある。」
(p53「知的生活習慣」ちくま新書)

外山滋比古氏の日本語の仕事を、少しは読み齧ろうとしたのですが、
当然ですが、私には歯がたたなくて、そのままになっておりました。
うん。外山滋比古氏が亡くなってしまった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久米の仙人の。

2020-08-06 | 古典
世界文化社の「日本の古典⑥グラフィック版徒然草方丈記」(1976)。
はい。近くに置いてひらきます。
このグラフィック版は各所の絵が掲載されていて
そのなかの前田青邨筆の「つれつれ草」と
「徒然草絵巻」とが気になっております。
本の最初の6~7ページには、徒然草絵巻より
「第8段 女の白い脛を見て通力を失った久米の仙人」が載っておりました。
はい。12ページに島尾敏雄氏のその訳がある。

「世の人を惑わすもので、色慾に及ぶものはない。
人の心は愚かなものだ。・・・・・・・・・・
久米の仙人が、物を洗っている女の脛(はぎ)の白いのを見て
神通力を失ったそうだが、まことに手足や肌が清らかに肉づきよく
つやが出ているのは、ほかの色ではないのだから、無理もないことだ。」

ちなみに、「久米の仙人の・・」を岩波文庫「徒然草」の注で
引用すると

「大和の国、吉野郡の竜門寺にこもって仙法の修行をし、
飛行の術を修得したという。
『後ニ、久米モ既ニ仙ニ成リテ、空ニ昇リテ飛ビテ渡ル間、
吉野河ノ辺ニ、若キ女、衣ヲ洗ヒテ立テリ。
衣ヲ洗フトテ、女ノ、脛(はぎ)マデ掻キ揚ゲタルニ、
脛ノ白カリケルヲ見テ、
久米、心穢(けが)レテ、其ノ女ノ前ニ落チヌ」
(「今昔物語集」巻第11の「久米ノ仙人始メテ久米寺ヲ造レル語第24」)

はい。ちなみに、時代考証をいたしましょう(笑)。
1932年(昭和7年)に白木屋の火事があってから、
女性もズロースを着用するようになるのでした。
それまでは着物の下は腰巻でした。

それはそうと、「徒然草絵巻」には海北友雪筆とあります。
海北友雪は、海北友松の息子です。

おさらい。竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社昭和40年)に
海北友松を取り上げた箇所がありました。そこから

「友松が41歳のとき、織田信長が浅井長政を小谷城に滅ぼした。
このときに、友松の父海北善右衛門綱親も自刃したが、友松は
東福寺にいたので難をまぬかれた。このような戦乱の世に生きて、
友松は武士であることを願い、武将に親しくして、自分の芸術には
それほど重きをおかなかった。子の友雪が父の肖像を描き、その賛に
『敢てその芸を専らにすることを欲せず、
志は武道に在り、努めて弓馬を学んだ』とあるそうである。
親友の斎藤利三が、山崎の合戦で捕らえられて粟田口で磔に
されたときには、友松は槍をふるって衛兵を追って、
利三の屍をうばって真如堂に葬った。
こういう人の絵にみなぎっているの命がけの気合は、
このころの時代精神だった。・・・・」(p140~141)

ここに出てくる斎藤利三の娘が、斎藤福。
斎藤福はのちの三代将軍徳川家光の乳母・春日局にあたります。

春日局(斎藤福)は、友松の息子・友雪を幕府御用絵師に取り立てる。

はい。以上は京都国立博物館開館120周年記念「海北友松」の
図録にあった「人物相関図・略記」(p46~47)からの引用。

うん。海北友雪筆の「徒然草絵巻」の全部を見てみたくなるのですが、
ネット検索すると4000円以上しそうなので、ここまで、
世界文化社のグラフィック版「徒然草方丈記」に載せられた
「徒然草絵巻」のいくつかを眺めて満足することにします(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あのときの僕のように。

2020-08-05 | 詩歌
高田敏子著「月曜日の詩集」(河出書房新社・昭和37年)をぱらぱらと
めくっていると、写真と詩がしっくりしているのが感じられます。

 道を二人して歩いている後ろ姿の写真があって、
そこに付けれらた詩は「春の道」でした。

  美しい娘さんが
  ほほえんでゆきすぎる
  たのもしげな学生さんが
  帽子をとってあいさつする
  『まあ あなたはどなた?』
  そのたびにとまどう私

  かつてこの道で
  タコをあげ
  羽根つきをして
  遊んでいたあなたたち
  その幼顔を思いだすまでに
  ながい時間がかかるのです

さて、男性が詩をかいたなら、どんな詩になるのか?
なんて思っていたら、丸山薫の詩『学校遠望』が
思い浮かびました。

  学校を卒へて 歩いてきた十幾年
  首(かうべ)をめぐらせば学校は思ひ出のはるかに
  小さくメダルの浮彫のやうにかがやいてゐる
  そこに教室の棟々が瓦をつらねてゐる
  ポプラは風に裏反つて揺れてゐる
  先生はなにごとかを話してをられ
  若い顔達がいちやうにそれに聴入つてゐる
  とある窓辺で誰かが他所(よそ)見をして
  あのときの僕のやうに呆然(ぼんやり)こちらを眺めてゐる
  彼の瞳に 僕のゐる所は映らないだろうか?
  ああ 僕からはこんなにはつきり見えるのに


うん。高田敏子さんの詩もいいのだけれど、
なんとなく、ちょくちょくそんなことを思ったりするのだけれど、

私には、丸山薫の詩が面白い。
こちらは、僕が僕を見ている。
『こんなにはっきり見える』という、僕の年齢とは
いったい何歳くらいからなのだろう?

うん。高田敏子の詩『花火』も引用することに

  夏休みがきても
  もう どこへゆくあてもない
 
  娘や息子は
  友だちと海や山へゆくのを
  たのしむ年ごろになった

  湯上がりの散歩もひとり・・・・

  いけがきの道をゆくと
  おもざしのよく似た兄妹が
  花火をかこんでいる
  かたわらに 母親らしいひとが
  マッチをもってほほえんでいる
  かつての私と子どもたちのように・・・・

この写真と詩との取り合わせが素敵でした。
かたや『学校』。こちらは『私と子どもたち』。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都の古書善行堂。

2020-08-04 | 京都
京都市左京区浄土寺西田町にある
古書善行堂は2009年にオープン。
店主の山本善行氏には、著書「古本泣き笑い日記」
(青弓社)がありました。

ようやく私は、京都絵画へと触手がひろがってきました。
そういえばと、「古本泣き笑い日記」を本棚からとりだす。
ここに、「加藤一雄周辺」(p128~137)とあったのを、
すっかり忘れていて、今頃思い出す。そのはじまりは

「加藤一雄との出会いは湯川書房。1999年10月28日、木曜日、
はじめて京都・三月書房の宍戸恭一さんに連れていってもらった、
その日である。いろいろな話のなかで何度か『かとうかずお』という
名前が出てくるのだけれど、いったい誰だかわからない。
洲之内徹のことから出てきた名前だったかもしれない。
湯川成一さんの話を聞きながら、気がつくと話がなんだか
『かとうかずお』になっている・・・・話が一段落したあとで
尋ねてみると、美術評論家であり・・小説をも書いた人だという。
・・・・帰りに三月書房に寄ると、用美社がなくなったという話のあと、
『加藤一雄の「京都画壇周辺」なんていい本出してたのにねえ…』と
いう話になった。それにしても、今日はみんながみんなどうしたと
いうのだろう。加藤一雄、加藤一雄と、知らないのは私だけかもしれない。
『雪月花の近代』(京都新聞社、1992年)ならあるというので、
これはもう読んでみるしかないと思い、買って帰った。・・・・・・・

最初に読んだ『雪月花の近代』は鉄斎、麦僊、華岳といった
日本画家のことを扱った随筆集なのだが、ほとんどなんの知識もない
私が、よくもその魅力を感じることができたものだと思う。
これだけの文章の書き手を知らなかったとは。
とにかく、このときから加藤一雄への旅が始まったのである。
いま考えても『雪月花の近代』にはそれだけのものがあったと思う。」

はい。こうしてはじまっておりました。
おもむろに、『加藤一雄』を読む好機到来。
『雪月花の近代』から読みはじめます(笑)。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高田敏子著「月曜日の詩集」

2020-08-03 | 本棚並べ
写真集とか画集とか詩集とかは、値段が高いけど、
それが古本ならば、リーズナブルな価格帯になる。
ということで、安いとついつい買ってしまいます(笑)。
そうして買ってあった詩集に、高田敏子著「月曜日の詩集」がありました。
河出書房新社から昭和37年に出ておりました。
手にした古本は、同じ月に再版されたものでした。

新聞の毎週月曜日の夕刊に掲載されてきたので、
詩集の題名もそのままつけられたようです。
あとがきに
「詩をもっと親しみやすくするために写真を配することになり、
詩を書く仲間の一人である菊池貞三さんにカメラのご協力をお願いした」
とあります。この詩集では2~3ページおきに写真が載っていて、
掲載時の雰囲気が分かるような気がしてきます。
定価は280円。とあるので最初から手にしやすい価格だったようです。
最後の著者略歴を引用。

「1916年、東京日本橋に生まれる。
旧制跡見高女卒業後結婚、ハルピン、北京、台湾などに移り住んだ。
娘、娘、息子と三人の母親。・・・・」

あとがきに、新聞に掲載された写真について語られております。
「写真をいく日もながめながら、私は過ぎてきた生活のひとつ
ひとつを思いだしていった。そして私を、いつも生きる岸辺に
つなぎとめてくれる何かを探していった。」

この古い詩集を手にして、詩と写真とを交互にみながら、
楽しめるのですが、「あとがき」のまえには、新聞の家庭部次長さんの
文があり、何か珍しいことのように読みました。
その新聞社の方の文の最後には、新聞に掲載された詩に
対するファンレターが寄せられて反響があったことが語られています。
そして最後には、ファンレターの一人の方の文を引用されておりました。

「私は、月曜日の『週間奥さまメモ』を、何よりも楽しみに拝見しています。
まっさきに、高田敏子さんの詩を読ませていただきますが、いつも心に
あたたかくしみて、自分の思ったり感じたりしていることを、そのまま、
高田さんが美しい詩にあらわして下さるような気がいたします。
また、メモのなかには、必ずといっていいように、私が明日しましょうと
考えていることや、二、三日まえにすませたことなどがのせられています。
そのたびに子どもたちに、ホラ、またおかあさんと同じ考えが書いてあったわ、
とか、ねえ、きのうおかあさんがしたことが出てるでしょう、などと話しかけずに
はいられません。子どもたちも、このごろは、この詩やメモ、きっと、
おかあさんくらいの年の人が書いてるのかもしれないわね、
などとあいづちをうってくれます・・・・・」

「おかあさんくらいの年の人」といえば、
詩集の著者略歴は、1916年生まれとなっておりましたが
高田敏子全詩集(花神社)の自編年譜で確認すると、
1914年(大正3)生まれとなっておりました。
はい。しっかり2歳、齢を若くしているのはご愛嬌か、
編集者の指示か?

自編年譜を繰っていると興味尽きないのですが、
関東大震災の箇所を引用しておきます。

1923年(大正12) 関東大震災。本所方面に上った火の手が
隅田川を越えて、女子供が先ず先に逃げた。祖母、母、姉、私、弟。
道は避難の人で埋まり、押され押されて歩き続けた。
新橋の浜離宮の茂みの下で少し休み、火の粉の下をくぐって
路線道にのぼり、大井町の知人宅まで逃れた。
途中、傾いた電車の中で仮眠。
同年9月10日ごろ、伯母の実家の神奈川県小田中(現在川崎市)の
農家にあずけられ、その土地の小学校に入学。二カ月ほどで、
焼け跡のバラック建ての家に帰る。
東華小学校に。机、椅子もなく、むしろを敷いての授業。

はい。ついつい引用が長くなるので、
ここまでにいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・天龍寺。

2020-08-02 | 京都
もともと京都のお寺に興味はなかったので、
天龍寺といっても、竜安寺と同じ寺かもなあ、
と思っていたぐらいでした(笑)。

淡交社「古寺巡礼京都・④天龍寺」(昭和51年)は、
そんな私に、よき入門書となりました。
水上勉氏の10頁の文が、格好の水先案内書となっております。
はじまりは

「ぼくは14歳から19歳まで、
天龍寺派別格地等持院で小僧をしていたので、
本山天龍寺へゆく用事があってよく出かけた。・・・
本山行事はもちろんのことだったが、塔頭でも、何やかや
人寄せ事があって法類小僧が応援に出る慣習があった。
だから、いま本山の風景一つを思いうかべても少年時に
かさなって格別の思いである。・・・・」

こうして夢窓国師の『夢中問答』も引用されておりました。

「『白楽天小池をほりて其の辺りに竹をうえて愛せられき。
其の語に云く、竹は是れ心、虚ければ我友とす。
水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。
世間に山水を好み玉ふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、
実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。・・・・
これをば世間のやさしき人と申しぬべし。
たとひかやうなりとも若し道心なくば亦是輪廻の基なり。
或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、
道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の
山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし、
しかれども、山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。
・・・・・・・・・・・
然らば則ち山水を好むは定て悪事ともいふべからず、
定て善事とも申しがたし、山水には得失なし。得失は人の心にあり』
 ・・・・国師の山水観はこの抜書で足りよう。
熟読して身を洗われたが、さかしらに、庭に向かって
物をいうことは控えねばならぬ。・・・・」


はい。このあとに、
『天龍寺は、夢窓国師が、足利尊氏・直義の兄弟を説得して
建てられた』ことのいわれを文を引用しながら説明されておりました。
ですが、ここはカットして、水上勉氏の文の最後を引用してみます。
ちなみに、この文の題は「天龍寺幻想」となっておりました。

「ぼくは子供のころ、等持院の庭で芙蓉の池畔に散る落葉を
掃いていて一服した時、無数といってもいい石が、気ままに置いて
あるとみえたものが、じつはそうではなくて石はそれぞれ場所を得て
坐っていて、それぞれのありようが摩訶不思議に思えた。・・・・・

物の本によると、京には阿弥という庭師のむれがいて、
卑しい人々だったともいう。国師のさしずで、人々が汗だくで、
石を置き、置きかえたりして、長い日数をかけて、完成されたのに相違ない。
そう思うと、柔和な頂相どおりの国師が、本堂裏にすわって、
褌一つでもっこをかつぐ阿弥たちを指図していらしゃる姿がうかぶ。
等持院だけではないのだった。この思いは天龍寺の規模壮大な
曹源池畔に立ってもやはりうかぶのだ。・・・・・
思うのは、国師が尻はし折りしてあれこれ阿弥を使い走りさせながら
自ら池泉を歩きまわられる姿である。・・・・」

え~と。だいぶ端折りましたが、
水上勉氏の文の最後はこうなっておりました。

「この庭を、夢窓さんの鎮魂の庭とみるのも、
草木と共に腐ちんとされた気概の庭とみるのも、
それは現代人の自由である。ぼくはいずれにしても
大勢の人が死んだ建武・暦応の昔の騒音を思い、
上層階級の人々の魂の痛みを、いつも
この庭の奥ふかくから耳をすませて聞くことにしている。」

うん。まるっきり知らなかった天龍寺なのですが、
はじめての案内を、水上勉氏の文章で読めてよかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水の掃除を稽古する。

2020-08-01 | 本棚並べ
本棚に探していた、「新編人生の本」というシリーズの
⑨「生活の中の知恵」(昭和47年)がありました(笑)。

パラリとひらくと、最初に小松左京氏の文
「『生活の中の知恵』について」が載っている。
そのはじまりのページくらいは引用しておきます。

「今はなくなってしまったが、以前、京都中心部の繁華街京極に、
富貴亭という寄席があった。三条富小路(とみのこうじ)上ルといえば、
京極まで歩いてほんの十分たらずだが、三高時代、そこの経師屋の
二階に下宿していた私の最大のたのしみは、月に一度、家から金をもらった
晩に、その寄席を訪れることだった。--昭和23年といえば、戦後の
インフレがまだ吹きあれていたころだが、富貴亭の席料は、映画などにくらべ
て割り高だったものの、値段の割に内容が充実している点で、もっとも
使い甲斐のある出費だった。東京の席亭のそこここが焼けて、
復興がまだ充分でなかったためか、東京のいい芸人がその富貴亭に
来るのが最大の魅力だった。・・・・」

こうはじまっている20頁。

うん。それはそれとして、この本に幸田文の文が掲載されていた
のでした。題名は『水』とあります。そのはじまりはというと

「水の掃除を稽古する。
『水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない』
としょっぱなからおどかされる。
私は向嶋育ちで出水を知っている。洪水はこわいと思っているけれど、
掃除のバケツの水がどうして恐ろしいものなのかわからないから、
『へーえ』とはいったが、内心ちっともこわくなかった。・・・」

こうして雑巾がけを、父露伴から習い始めるのでした。
そうしているうちに、こんな箇所もあり、印象に残っております。

「父は水にはいろいろと関心を寄せていた。
好きなのである。私は父の好きだったものと問われれば、
躊躇なくその一ツを水と答えるつもりだ。
大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水、
の計数的な話などおよそ理解から遠いものであったから、
ただ妙な勉強をしているなと思うに過ぎなかった。
が、時あって感情的な、詩的な水に寄せることばの奔出に会うならば、
いかな鈍根も揺り動かされ押し流される。
水にからむ小さい話のいくつかは実によかった。
これらには、どこか生母の匂いがただよっていた。
生母在世当時の大川端の話だったからである。

簡単に筆記してシリーズのようにして残してくださいと
頼むと、いつも『うん』と承知するが、その時になると、
『まあ今日はよしとこう』とくる。翌日も押すと、
『おまえは借金取りみたようなやつだ。
攻めよせてくるとはけしからん』といって、ごまかされてしまう。
借金取りといわれてはいささか気持がよくないから、
これらの話は一ツだけしか残っていない。
残ったのは『幻談』と私のあきらめばかりである。」

はい。幸田露伴の『幻談』という題は記憶に残りました。
後で、短い文なので読んでみました。

この『水』という文は、このあとに
幸田文18歳のことが出てきます。

「・・・学校の教科書にはポオの『渦巻』の抜萃がのっている。
・・・そのとき父はお酒を飲んでいたのだが珍しいことに・・・・
『うむ、あの話か。ちょっとお見せ』と眼鏡をかける。
子供たちは父親の英語発音を尊敬していない。・・・奇怪な発音であった。
訳をしてくれたが、それがひどい逐字訳で、なんの意味だか
さっぱりわからない。『おまえがわかってもわからなくても、
この本にはそう書いてある』というのだから閉口した。

『おまえは渦巻を知らないからだめなのさ』と
本を置いて眼鏡をはずすと、もうポオにあらざる親爺の
渦巻に捲かれてしまい、訳読なんぞどうにでもなれ、
溜息の出るようなすてきな面白さであった。
・・・・・・・最後に、どうしてこういう渦から逃れるかが語られ、
泳ぎができなくてもやれるというので
直沈流(ちょくちんりゅう)の私は一しょう懸命に聴いた。
 
これで話が終れば無事であったが、その翌日、
私はずぼんと隅田川へおっこったのである。
その日は朝しぐれの曇った日であった。
吾妻橋の一銭蒸気発著所の浮きデッキと蒸気船の船尾との
狭い三角形の間へ、学校帰りの包みやら蝙蝠やらを持ったまま
乗ろうと、踏み出した足駄を滑らせて、どぶんときまったのである。
眼をあけたら・・・無数の泡が、よじれながら昇って行くのが見えた。
渦。咄嗟に足を縮めた。ずんと鈍い衝当りを感じるのを待つ
必死さに恐れはなく、がんと蹴って伸びた。ぐぐぐっと浮きあがって」

はい。この後の描写はカット(笑)。
家に帰った箇所から引用。

「玄関の外に待っていた父に、じっと見つめられ泣きたくなって、
『ご心配をかけました』と立ったままいうと、はははと上機嫌に笑って、
『水を飲んだろう。』『いいえ。』私はうそをついたのである。
『馬鹿をいえ、そんなはずあるもんか。指を突っ込んで吐いちまえ。』
やむを得ない、そこへしゃがんだ。父は背中から抱いて、
みぞ落をこづき上げた。・・・・・
父は、『デッキか蒸気の底へへばりついたら今ごろは面倒なことだった。
ポオ先生のおかげで助かったのだ』といっていた。・・・・」

はい。こんな話を読んだのじゃ、
いくらボケっとした私でも印象に残るものです。
後年になってたしか幸田文全集が出たあとに、
幸田文対話という本がでました
(それはのちに岩波現代文庫「幸田文対話(下)」に載ります)。
そこに、幸田文のおさななじみの関口隆克氏と幸田文の対話が
再録されておりました。関口隆克氏はその現場を見たとのことです。

関口】 だけどね、これ、あなただと思うけど、
ほんとだったかどうか、言ってよ。・・・・
雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸気に乗ろうとしたら、
あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、
落ちた、落ちたって・・・・。

幸田】 あれ、あたくしよ。

関口】 あなたでしたか、やっぱり・・・・・
走っていったらね、船べりと台船のーー台船って、汽車でいえば
プラットホームに相当する、それが波で揺れるから、隙間があくのね。
船長さんが・・・セッタばきでね、とも綱をひっかけてギュッと締めてる
んだけれども、揺れると隙間があきますよ。その間へ落ちったていうんで、
ぼくが見ていたら、ポカッと頭が出てきたんだな。女の人だ、と思ってると、
左手にご本なんかの風呂敷包みをもって、右手に、あれは傘だと思った・・。

幸田】 傘よ、傘。コウモリ傘よ。

関口】 それでスーッと出てきて、だれかが手を貸したら、
そのままフッとあがったんだ。
それでぼくはね、ハッと思いましたよ。
たしかに文子さんだと思ったけどね、みんなに取巻かれてたから、
すこし青ざめていたかと思うけども、リン然としておられるのでね、
近寄りがたくて、その日はとうとう、あなたに口をきけなかった。
・・・・・(文庫p130~131)

うん。たしか幸田文の『木』や『崩れ』は
亡くなってから単行本として出たのでしたよね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする