本棚から加藤秀俊著の2冊
「メディアの発生」(中央公論新社・2009年)と
「メディアの展開」(中央公論新社・2015年)を
出してくる。すっかり内容を忘れていたのですが、
あとがきが、思い浮かんだので、その確認。
ちなみに、加藤秀俊氏は1930年東京生まれ。
「メディアの発生」のあとがきに
「・・まとまった自由時間のなかで、気ままに本を読んだり、
旅にでたりしながらすこしずつ書いていたら、いつのまにか
足かけ5年の歳月がすぎて、わたしはいつのまにやら
79歳の誕生日をむかえていた。いうならば、これはわたしの
八十代へむけての卒業論文のようなものだ、と自分ではおもっている。
筆のすすむまま書きつづけ、気がついてみたら原稿の量は
千二百枚をこえていた。こんな長編を書き下ろしたのは
生れてはじめての経験だった。・・・」(p618)
「メディアの展開」のあとがきでは
「前著・・『あとがき』でそれを『八十代へむけての卒業論文』
だと書いた。あれからちょうど6年、気がついてみたらおやおや、
いつのまにやらわたしは85歳になっていた。・・・」(p612)
はい。せっかく本を出して来たのですから、
パラリとひらいた箇所を引用。
「・・わたしの中学時代の国語教科書の
冒頭にあったのは橘南谿(たちばななんけい)の『東西遊記』。
それにつづいて『常山紀談』があった。これは岡山藩の家老まで
つとめた湯浅常山(ゆあさじょうざん)がしるした戦国時代以後の
武将の故事逸話集。山内一豊(やまのうちかずとよ)の馬の話、
曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)の頓智、
塚原卜伝(つかはらぼくでん)の剣術、さらには
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の忠節など、
おおむね講談本でもおなじみの物語集で、教科書には
道徳的、教訓的な挿話が収録されていた。
現在の子どもたちには想像もつくまいが、
いまから半世紀ほどむかしの中学生はこんな書物によって
学習していたのである。20世紀はじめの中学生はそれほどに
18世紀の日本の文章に親近感をもっていたのであった。
これらのテキストは当時の中学生の学力からすると、
そんなにむずかしいものではなかったし、わたしなどは
おおいに感心して愛読したのだが、いったいこういう文章は
なんと名づけたらいいのだろう、という疑問にぶつかった。
・・・・・・・
べつにどうということもない文章。それでいて、おもしろい。
いったい、こういう文章はなんというのですか、とかつての
中学生は国語の先生に質問した。
そうかい、いいところに気がついたね、
こういうのは『随筆』というんだ、読んで字の如し、
筆のむくまま、まあ、題名のない『作文』だと思いなさい。
こんなしだいでわたしは『随筆』という文学のジャンルが
あることを知った。・・・」(「メディアの展開」p473~474)
すぐあとに、正岡子規の『筆まかせ』からの引用がありました。
「
『この随筆なる者は余の備忘録といはんか
出鱈目の書きはなしといはんか 心のちょっと感じたることを
そのままに書きつけをくものなれば 杜撰(ずさん)の多きは
いふまでもなし 殊にこれはこの頃始めし故
書く事を続々と思ひ出して困る故
汽車も避けよふといふ走り書きで文章も文法も何もかまはず
和文あり 漢文あり 直訳文あり 文法は古代のもあり
近代のもあり 自己流もあり 一度書いて読み返したことなく
直したることなし さればそれ心して読み給へ。』
いささか開き直った文章だが、
『心にちょっと感じた』ことをすぐに文章にしてしまうのだから、
『随筆』の極限的な例といえるだろうし、これほどみごとに
『随筆』というジャンルを定義したものはほかにない、とわたしはおもう。
じっさい、これを読んでみると東京の街頭風景の比較から
故郷松山の風俗の変遷、幼児期の回想から文壇時評、
文体論から野球、さらに漱石との往復書簡にいたるまで、
なんでも書き付けてある。・・・・・」(p474~475)
これをたどって、つぎのページには枕草子の名も
でてきたりして、読むのはたのしかったのですが、
今では、内容すっかり忘れてしまっておりました。