(前回の続き)
「われわれは感覚でいったいなにをまずとらえているのだろうか?それは世界の違い、変化である。なにも変化しなければ、たとえばなにも音がしなければ、耳は働かない。明かりが変化すれば、目はすぐに気が付く。感覚器は「外界からの刺激を受け取る」。つまり外界の変化に依存して働く。」(p32)
「この本の文脈で言えば、「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在つまり感覚所与を重視する。」(p46)
「この世界には変化があり、出来事同士の関係には時間的な構造があって、それらの出来事は断じて幻ではない。出来事は全体的な秩序のもとで起きるのではなく、この世界の片隅で複雑な形で起きる。ただ一つの全体的な順序にもとづいて記述できるようなものではないのだ。」(p113)
「「人間とは知覚像の束である」といったとき、それでは、知覚はどこに行ってしまったのだろうか。知覚像の束というけれども、そこには知覚はないのだろうか。
そうではない。知覚はもちろんある。知覚像は、知覚つきの像なのである。たとえば他人が痛そうな顔をしているとき、その像は「痛みの像」であるが、これに接したからといって私が痛いわけではない。もちろんミラーニューロン(他者の行動を見たときも、自分がそれと同じ行動をとっているときと同じように働く神経細胞)が働いて私も「あたかも痛いように」感じることもあるだろうが、しかし実際に自分が痛いわけではない。・・・」(p67~68)
こういう風に、大脳生理学者、物理学者、哲学者の記述を並べてみると、ものごとが分かりやすくなると思う。
私なりに総合すると、次のようになる。
「知覚」≓「感覚所与」(感覚器に与えられた第一次印象)とは、「変化」(出来事)が信号化されたものである。
「知覚」≓「感覚所与」は、「時間」(出来事同士の関係)の源泉であり、これを有するということが、<第一の生命>の意味であり、その主体というのが、「生物」の定義である。
他方、養老先生によれば、「感覚所与」に対抗するのは「意識」であり、「意識」は、「(「変化」を捨象して)同じにする」作用を営んでいるという。
さて、ここで養老先生の思考と小倉先生の思考とを繋げようとすれば、「意識」によって認識ないし再構成された「感覚所与」(養老先生風に言えば「脳がとらえた電気信号のパターン」)こそが、「知覚像」の正体ということになりそうである。
ところが、そうはならない。
小倉先生は、「知覚像」は、意識/無意識(個人のものだけでなく、集合的無意識も含む)いずれの領野にも生起することが出来ると指摘しているからである(前掲p61)。
これは、小倉先生が「知覚像」の生成・保存の場は「脳」全般であると見ているのに対し、養老先生は「脳」の機能の一部をもって「意識」と捉えているためだろう(但し、やや注意を要するのは、小倉先生の「脳」は、「私」のそれだけでなく、「他者」のそれも含んでいるという点である。小倉先生の主張全体を整合的に解釈しようとすれば、そのようになるはずである。)
それでは、「意識」とはいったい何なのだろうか?
「意識」=「脳」でないことは確かである。
なぜなら、養老先生も指摘するとおり、少なくとも人生の三分の一は「意識」がないからである。