(前回の続き)
「知覚像とは、「あたたかさの表象」「痛さの表象」「甘さの表象」「まぶしさの表象」といったものであり、それぞれ「あたたかい」「痛い」「甘い」「まぶしい」という知覚とは異なり、あらかじめ「私」という個別の主体を前提とする観念ではない。つまり知覚像は、「私」がいなくても成立しうると私は考えている。
なお、ここで「知覚」というものは、ヒュームのいうそれと同じものとして定義しておく。つまり、印象及び観念を指している。そしてヒュームは、感覚・情念・感動も印象の中に含めたのであるが、私も同じ分類をしたいと思う。また記憶と想像を観念の中に含める点も、私はヒュームに倣いたいと思う。」(p60~61)
「心とは、知覚像の生成と保存の場である。
知覚像は、心に生成するのである。この点で私は大森荘蔵の考えとは異なる見解をとる。大森は心を外側に出した。悲しいという心を持った私が、月を見ると悲しく見えるのではなく、そこに(私が見上げているあの空に)「悲しい月」があるのだという。
しかし私は、悲しいという感情が生起するのは、あくまで心(脳といっても同じである)なのだと考えている。この意味ではごく常識的な考えである。」(p73~74)
おおざっぱに言えば、小倉先生の思考は「唯脳論」と言って良いと思われる。
では、「脳」において生成・保存される、「私」(ひいては主体全般)がなくても成立しうる「知覚像」とは何か?
「目に光が入る、耳に音が入る。これを哲学では感覚所与という。とりあえず感覚器に与えられた第一次印象といってもいい。
動物は感覚所与を使って生きている。それが私の最初の結論である。・・・」(p32)
「まず結論からいこう。動物の意識にイコール「=」はない。・・・
a=b ならば、b = a である。
これが動物にはわからない。わからないと私は思う。これを数学基礎論では交換の法則という。・・・
・・・感覚はいわば外の世界の違いを捉えるもので、それを無視すれば、「すべては交換可能だ」という結論になる。乱暴にいうなら、脳の中だけでいえば、すべてが交換可能である。なぜならすべては電気信号だからである。」(p49~55)
養老先生の指摘を参照すれば、小倉先生のいわゆる「知覚像」とは、「脳内を伝わる、パターン化された電気信号」を指していると考えることが出来るのではないだろうか?