「東洋においても西洋においても、そしておそらくどの文明圏においても、人類は、肉体的な、つまり生物学的な生命とは異なる、別の生命を発見ないし発明しました。・・・
典型的なのは、キリスト教における「霊のいのち」でしょう。・・・
命を与えるのは、”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」6・63、新共同訳」)(p90~91)
私は、史上最強の「道具概念」は、小倉先生が言うところの「第二の生命」、つまり「永遠のいのち」の中の「霊のいのち」ではないかと思う。
そもそも、「永遠のいのち」は生物学的生命としては存在しないものなのだが、「霊のいのち」には、明確な政治的意図があるように思われる。
「現代の先進国の政治権力は、生権力(バイオパワー)です。
つまりこれは、「国民の個別的・生物学的な<第一の生命>というものを長引かせて、管理して、健康にしてやる」というタイプの権力なのです。」(p101)
パウロの時代は、現代とはまるで違うタイプの生権力が人々を支配していた。
生殺与奪の権を有するローマ帝国が、ユダヤ教徒やキリスト教徒を迫害していた(パウロも殉死(刑死)したという伝承がある)。
これに対し、「霊のいのち」は、バイオパワーが差配する<第一の生命>を超克する道具概念としての目的を帯びていたのではないかと思う。
このことは、古代エジプト的な個別的霊魂不滅説と対比してみると分かりやすい。
古代エジプトでは、ファラオだろうと一般市民だろうと、死ねば個人としてそのまま生き続けるわけだが、パウロの場合、いのちは唯一の神のものであり、理屈としては、死ねば神のもとに戻る(合一化する)ことになるだろう。
他方、「霊のいのち」を与えられないローマ帝国の迫害者たちは、死ねばそのまま消滅するということになり、かくしてパウロをはじめとするキリスト教徒が「勝利」をおさめるわけになる。