「ニーチェはたしかに、「永遠の生命」つまり<第二の生命>を糾弾し、なまみの肉体を復権させた。しかし、この批判は真に根源的な批判でありえただろうか。
それは、大衆が自らの肉体の保全を望むとき、根源的な批判になりえない。すなわち、イエスの「癒やし」とフーコーのいう「生権力」を大衆があくまで望むとき、敗北する思想なのである。この世での敗北をこそ究極的な勝利だと考えることはできる。しかし、そう考えた瞬間に、「死の説教者」への対抗言説は一気に「死の説教者」と同類のものになってしまうのだ。
この「敗北」=「勝利」の詭弁から脱出するためには、次のふたつのことが要求される。ひとつは、「イエスによる癒やし」を<第一の生命>でも<第二の生命>でもないほかの角度から再解釈することである。もうひとつは、「生権力(biopower)」を打ち倒す「生自由(biofreedom)」の道を切り開くことである。それこそが、本書のテーマである「弱いニーチェ」が語ったことなのだ。」(p48~49)
<第三の生命>の「道具概念」性がよく分かる記述である。
もっとも、<第三の生命>にたどり着くまでには、いくつか大きな関門がある。
その最たるものが、言うまでもなく、<第一の生命>の実体であり、かつ<第二の生命>を要求する原因とも言うべき「身体」(引用したくだりでは「肉体」)である。
私見では、小倉先生は、これを「「私」(ひいては主体全般)の解体」+「受容体への還元」という方法で乗り越えようとしたように思える。