(前回の続き)
「莫大な記憶容量をもつわれわれのような複雑な有機体においては、われわれが自分の存在を見いだす一瞬の認識が、記憶にかきとどめられ、適切に分類され、過去や予期される未来と関係する他の記憶と関連づけられる。その複雑な学習捜査の結果が自伝的記憶ーーつまり、われわれは身体的にはどういう人間で、行動的には通常どういう人間で、将来どのような人間になろうとしているか、という一連の傾性的記録ーーである。
われわれは生涯にわたって、この一連の記憶を拡大したりつくり変えたりすることができる。量的には多い場合も少ない場合もあるだろうが、必要があって、そのうちのなにがしかの個人的記録が、再構築されたイメージの中で明示的にされると、それらは「自伝的自己」になる。」(p231~232)
ダマシオによれば、「自己」(私)は、「原自己」→「中核自己」→「自伝的自己」という三層構造を成しているという(p233)。
このうち「原自己」(脳の複数のレベルで有機体の状態を刻々と表象している、相互に関連しあった、そして一時的に一貫性のある、一連のニューラルパターン)の仕組みは、「再帰的に自己言及されることでしか、規定できない何ものか」という、小倉先生による「私」の定義に親和的である。
それでは、「知覚像」についてはどうだろうか?
ダマシオは、おそらくこの考え方には懐疑的であり、小倉先生による「知覚像」の定義に対しては、二つの方向からの反論を行うものと思われる。
一つは、小倉先生のいわゆる「知覚像」(の一部)は、結局のところ「情動」を指しているに過ぎないのではないかという点である。
ダマシオのいう「情動」は、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、驚き、嫌悪(「一次の情動」あるいは「普遍的情動」)、当惑、嫉妬、罪悪感、優越感など(「二次の情動」あるいは「社会的情動」)、優れた気分や不快な気分、平静や緊張など(「背景的情動」)、さらに欲求や動機などを広く含んでいるところ(p72)、これらは「類似性」を特色としており、「類似性」ゆえに芸術や文学、音楽や映画は国境を越えることが出来るのである(p75)。
この、「情動」の本来的な「類似性」に基づいて、小倉先生は、「悲しみの像」などの「知覚像」を持ち出しているのかもしれない。
だが、そうであればわざわざ「像」という語を用いる必要はなく、個々の主体のうちに実現される類似した「知覚」を、例えば(「情動」としての)「悲しみ」とでも呼べばよいだけの話である。
もう一つは、「情動」は、訓練や学習によって統御可能となる場合があるところ(p70~71)、小倉先生が「「知覚像は、私に知覚されなくても存在する」というときには、この「情動」の後天的・社会的側面のみを捉えて過度に一般化している恐れがあるのではないかという点である。
確かに、「外から与えられる」タイプの「情動」もないわけではないが、実際のところ、「情動」の大部分は、意識することさえ難しい身体状態の変化とそれに対する反応であり、本来外在的なものではない。
さて、小倉先生の主張の中で、もっと問題なのは、「多重主体性」である。
これについて、ダマシオは、おそらく全面的に否定すると思われる。
彼は、「一人の人間を定義する一つの心は一つの身体を必要とし、一つの人間の身体は必然的に一つの心を生み出す」と断言しているからである(p191~193)(これは彼の「ソマティック・マーカー仮説」のコロラリーでもある)。
この、「一つの心と一つの身体」の結びつきにおいて最も重要な機能を果たしているのが、「拡張意識」であり、誤解を恐れずに言えば、これが「記憶」の本体である(p258~)。
この「拡張意識」とともに「自伝的自己」が生じることとなるが、私見では、これこそが、養老先生が言うところの「同じにする」ことを可能ならしめるものである。
この点、個々人が抱く「知覚」を一般化し、特定の「知覚像」を概念する際には、「同じにする」作用が働いているところ、これは、「自伝的自己」(要するに一種の「私」)の存在を前提している。
なぜなら、AとBという異なる2つの対象を「同じにする」ためには、対象Aとの関係に関する「記憶」と、対象Bとの関係に関する「記憶」を、「一つの」「自伝的自己」が対比して「同じ」と判定しなければならないと解されるからである。
裏返して言うと、同一の「記憶」を複数の「自伝的自己」が共有することはないし(身体が異なるから)、「記憶」がない人間は、AとBとを「同じにする」ことが出来ないはずである。
話が長くなったが、結局のところ、「知覚像」を概念する過程において、「一つの」「私」という存在が動員されている訳であり、そうなると、「知覚像」という「道具概念」を拵える目的(つまり、「「私」(ひいては主体全般)の解体」+「受容体への還元」)と矛盾してしまうのである。
・・・こういう風に考えてくると、小倉先生の説は、なかなか魅力的ではあるけれども、「身体」(ないし<第一の生命>)という壁を克服することは難しかったようである。