「創造する東アジア 文明・文化・ニヒリズム」に示された小倉先生の発想を私なりに解釈すると以下のとおり。
・「私」(ひいては主体全般)がそれ自体独立して存在することはない(p69など)。
・そもそも、「私」(ないし主体)を前提としない、「知覚像」(知覚と像)が存在する。むしろ、世界には、「知覚像」しか存在しない(p63、p80など)。(ヒュームが「人間とは知覚の束である」というとき、既に「私」の存在を前提しているが、「知覚像」は「私」(ひいては主体全般)がなくとも存在しうる(p59~62)。)。
・そして、「人間」は、「知覚像」の受容体、「知覚像」の束であり、「私」とは、私の「知覚像」をもつ存在のことである。これは循環論法だが、「私」とは、このように再帰的に自己言及することでしか、規定できない何ものかなのである(p58、68など)。
・さらに、「この知覚像」は「他の数々の知覚像の全体」と関連し、連動している。「この知覚像」は今、私に知覚されている像であると同時に、私とは無関係な他者によっても何らかの意味で知覚されている像である。個々の物の知覚像には、他者の主体性が宿っている。このような<私>のあり方を、「多重主体」と呼ぼう(p66~67など)。
前回指摘したとおり、これが、「私」(ひいては主体全般)を解体(むしろ否定)し、「受容体」へと還元しようとする思考であることが、はっきり分かると思う。
この思考においては、言うまでもなく、「知覚」ではなく、「知覚像」というところがポイントであり、私見では、これも「道具概念」である。