政治学を専攻していると、早い段階で政治過程における「言葉」の役割について学ぶはずだ。
私の場合、確か大学1年か2年だったと思うが、政治学の入門的な講義の中で、「政治過程における言葉は大きく2種類に分類される」という話を聞いた。
講義の内容を要約すると、以下のようになる。
「言葉を象徴として捉えた場合、これは2つに分類することが出来る。
すなわち、「認識象徴」と「組織化象徴」である。
(当時の政治学担当の教授は出典を示さなかったが、調べたところ、どうやら元ネタは「政治の論理 T.D.ウェルドン/〔著〕 永井陽之助/訳」のようだ。)。
同じ言葉でも、例えば、次のように、機能が全く違うことがある。
① Aは●●党の政治家である。
② Aはなかなかの政治家である。
①の「政治家」は、典型的な「認識象徴」であり、事実をありのまま表現したものである。
これに対し、②の「政治家」は、意味合いは「策士」に近く、「Aの言動には要注意。仲間になってはいけない」というニュアンスを含む「組織化象徴」である。」
私の理解では、「組織化象徴」は、相手に対し、一定の行為(作為・不作為)を指示・要求するところが、「認識象徴」との違いだと思われる。
余談だが、動物の鳴き声などは、私にはほとんどが「組織化象徴」に思える。
例えば、「抱っこしてほしくて必死におねだりしてくる子猫がかわいすぎました笑」に出て来るはなまる君の「ニャア」という鳴き声は、「寝る場所が欲しいから早く仰向けになってちょうだい」というメッセージのようだ。
つまり、「組織化象徴」の方が、"政治的"であると同時に”動物的”なのである。