(前回の続き)
「「この絵に描かれた波濤には、海のいのちが躍動している」
とか、
「子どもたちが書いた詩から、幼いいのちの声を感じることができる」
などという言い方を、わたしたちはときどきしますね。・・・
わたしの考えでは、それらはほんもののいのちなのです。譬喩ではないのです。」(p85)
「わたしたちにとってもっとも身近な生命は、肉体的生命つまり生物学的生命です。しかしその個別性・限界性に気づいた人間が、普遍的な「ひとつのもの」の持つ生命力を信仰するようになります。この前者を<第一の生命>と名づけ、後者を<第二の生命>と名づけるとすると、実は人間は、このふたつとは異なる<第三の生命>を感受しています。
それが先ほど述べた「海のいのち」なのです。実はこのタイプの生命感覚を、人類はこれまで数多く論じてきました。ベンヤミンの「アウラ(Aura)」などはその代表でしょう。しかしそれを、「いのち」だとは考えてこなかったのです。わたしはこの偶発的に立ち現れる<あいだのいのち>を<第三の生命>と命名して考究していきたいわけです。」(p94~95)
このくだりを読むと、<いのち>も<第三の生命>も、実際には「肉体的・生物学的生命」(通常は単に「生命(いのち)」と呼ぶ)ではないにもかかわらず、それを「生命(いのち)」と同等のものとして扱うために拵えられた、典型的な「道具概念」であることが分かる。
実際、引用した記述のロジックは、「権利能力なき社団」に関する判例・通説のそれとほぼ同じである。
この「道具概念」がつくられた目的ははっきりしている。
それは、第一に、<あいだのいのち>(アウラなど)に「生命(いのち)」と同等の地位を与えること、第二に、そのことによって、<あいだのいのち>を、同じく「道具概念」である<第二の生命>に対抗させ、これを(「生命(いのち)」も併せて)超克すること、である。