Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

内紛の真相

2023年09月10日 06時30分00秒 | Weblog
  「梅原委員長は予選を泳いだある選手に対して、別の日本人選手が出したタイムを引き合いに「そのタイムより速くいけるか?」と投げかけた。予選をなんとか通り、今大会最後のレースをみんなで一緒に頑張る。そんな雰囲気で戻ってきたところで、このタイムで泳げなければ交代だと言わんばかりの高圧的とも取れる問いかけにその選手は涙を流したという。

 水泳連盟の”内紛”の真相については、報道を見てもよく分からない。
 だが、いくつか読み比べてみたところ、上に引用した記事に最も説得力を感じた。
 この記事によれば、パワハラが疑われる状況にあるということのようだ。 
 依然として、選手の心を傷つけたり、恥をさらしたりする指導者が枢要な地位にいるのかもしれない。
 ダルビッシュだったら、どういうコメントをするだろうか?(人を傷つけたり、恥を晒したりしない
 
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加害者転校

2023年09月09日 06時30分00秒 | Weblog
 「9月に新学年が始まったフランスでは、学校内でのいじめが確定した加害者の生徒を、別の学校への転校させることが可能になった。 ・・・
 これまでは被害者の要請があれば転校命令を出せたが、9月からは校長と自治体首長の判断で強制的に転校させることが可能になった。

 虐待やパワハラ、隣人紛争などのトラブルについて、世界的に最も多い解決策は、「分離」(separation)ないし「回避」(avoidance)である。
  具体的には、被害者をシェルター・施設で保護する、会社を退職する、遠くに引っ越す、などというもので、殆どが「被害者を今の場所から離す」というものであった。
 だが、これは究極的な解決策とはならない。
 なぜなら、これだと、加害者は「魂の連続殺人」(就活うつを吹き飛ばす(2))をやめないため、次の被害者が発生してしまうからである。
 そうすると、フランスのように、いじめの加害者を転校させたとしても、やはり「魂の連続殺人」は防げないのではないかという気がする。
 やはり、自己愛性人格障害に対して、何らかの「治療」が行われる必要があると思うのである。
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知的信用(8)

2023年09月08日 06時30分00秒 | Weblog
 「証人台の塚部をほぼ正面の原告席から見ていた大川原社長には「言いたくないことを言わされているたびに検事の顔色が赤黒く変わったように見えた。個人の意思を抑えてしまうからダメなんだ。上司に『違う』と言える検察組織にしていかないと、国としてやばい」。大川原社長は組織を率いる企業経営者として、検察という組織のいびつさを危惧している。

 「「何とか言ったらどうなんです。あなたまだ心の中で反省できてないでしょう。嘘を認めようという気にもなってないでしょ」「検察なめんなよ。命賭けてるんだよ、俺達は。あなた達みたいに金を賭けてるんじゃねえんだ。かけてる天秤の重さが違うんだ、こっちは。金なんかよりも大事な命と人の人生を天秤に賭けてこっちは仕事をしてるんだよ。なめるんじゃねーよ」
 決定は、これらの田渕大輔検察官の言動を「(机を強く叩いて大きな音をたてる行為は、Kに)驚きや畏怖の念等を抱かせる性質の行為である」「約50分という長時間にわたり、Kに対し、ほぼ一方的に責め立て続けており…このうちの約15分間…は、大声を上げて一方的に怒鳴り続けている」「K…を何度も何度も繰り返し執拗に責め立て、他にも虚偽供述があるはずであるなどと具体性のない質問を投げかけ、証拠は十分で、責任は逃れられないなどと述べることに終始している。その間、『反省しろよ』『 ふざけるな』『なめんなよ』などの威圧的な言葉を交え、Kの説明を十分に確認することなく嘘と決めつけ、Kが嘘をついて謝らない人間であるとか、金を賭けた者らと命を懸けている検察官とは違うとか、幼稚園児でも分かるなどと、Kの人間性に問題があり、あるいは、その人格を貶める趣旨の侮辱的な発言」をしたと評価している。正当な評価であり、通常の「脅迫」をも超えた「陵虐」行為を認定したことも当然である。このような犯罪を行った田渕大輔検察官には、訴追官としての資格はないはずである。検察庁も組織としてその責任とるとともに、本件の検証、再発防止策を講じるべきである。

 「ビルから飛び降りろ」、「お前の家族皆殺し」というレベルにまでは行かないものの、
 「検察なめんなよ。命賭けてるんだよ、俺達は。あなた達みたいに金を賭けてるんじゃねえんだ。かけてる天秤の重さが違うんだ、こっちは。金なんかよりも大事な命と人の人生を天秤に賭けてこっちは仕事をしてるんだよ。なめるんじゃねーよ
という発言には、それに近いものを感じる(冤罪だったのであれば、「賭けていた命をその代償として捧げる」ということになりそうなものだが。。。)
 2つの記事に登場する検事(たち)は、「試験勉強は出来るが、『没知性的』な、集団思考・集団志向に染まった人物」の典型例のように思える。
 要するに、根本的なところに欠落があるのだ。
 この種の人たちは、例えば、中国に生まれれば共産党員となり、ロシアに生まれれば旧KGBに入り、組織の中で出世していくのかもしれない。
 そして、残念なことに、わが国では、この種の人たちがいまだに重用されているわけである。
 中等教育に問題がある点は繰り返し指摘してきたが、さらなる問題は、「知的信用」がきっちりと入った人材は、現在の検察庁(及び裁判所)のような、「組織防衛」を絶対視する集団を嫌悪し、こうした組織には加入しないため、「悪貨が良貨を駆逐する」現象が生じているのではないかということである。
 そうでなければ、陵虐行為を行うような人物が、組織の中で枢要な地位にいるはずがないだろう。
 
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知的信用(7)

2023年09月07日 06時30分00秒 | Weblog

 「豊かな家庭に育っても、知的な信用が入っていない」エリート大学生が大量に出現してしまうのは、中等教育に問題があるためと考えられる(知的信用)。
 こうした観点からすると、中高一貫校の中には、教育体制(校風?)に問題のあるところがチラホラあるようだ。
 問題というのは、要するに「集団思考」・「集団志向」である。
 しかも、この現象が、甲子園と霞が関・永田町とで同時に見られるというのは興味深い。
 ところで、歴史的に見て、集団への帰属原理として最も強力なのは「血と土」(血縁とテリトリー)だった。
 なので、かつての甲子園大会では、観客や視聴者の多くが「我が郷土の代表」を応援してきたわけである。
 ところが、今や「血と土」のパワーは、血縁・地縁共同体の崩壊によって、かつてないほどにまで弱まっている(と思う)。
 もちろん、これに代替するものとして、昭和30年代から「カイシャ」が台頭してきた(なので、「モーレツ社員」が激増した)。
 だが、近年では、「カイシャ」に帰属意識を持つ若者は減っている。
 それもそのはず、正社員になれるのは一部の人たちだけなのだ。
 そうした中で、エリート階層への参入を保証してくれる、(ごく一部の)学校は、かつての「血と土」に代わるものとしてのパワーを見せつけているようだ。
 もっとも、上で指摘したように、これが「知的信用」の欠乏を招いている可能性もあるわけだ。
 最も懸念すべきは、「多数を以てしても圧服できない個人の尊厳という考え方」(丸山先生の錯覚?)がおよそ理解出来ない思考に支配されてしまうことである。
 のみならず、この種のメンタリティが蔓延している状況では、(ある作家が至上の価値として掲げた)「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本 」が現前化する可能性はゼロである。
 なぜなら、彼ら/彼女らにとって最も重要な帰属集団は、「日本」ではないからである。
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鍵盤楽器(2)

2023年09月06日 06時30分00秒 | Weblog

 てっきりチケットは買っていたと思いきや、2カ月くらい前にそうではないことに気づき、あわてて購入したら、最終的には「完売」となっていた。
 過去2回(鍵盤楽器アンコールなし(2))は最前列で聴いていたのに、今回は後方席となってしまったが、ホールのつくりが優秀で、音の響きは満足いくものだった。
 チェンバロで聴くパルティータはこれが初めてだが、それにしても特に第1番のメロディーは芸術として完璧である。
 これに肩を並べるのは、「ゴルトベルク変奏曲」くらいではないだろうか?
 さて、「パルティ―タ」という曲は、私見では、比較的ピアノ向きの曲であるように思う。
 コンサートの後で、アンジェラ・ヒューイットのピアノ版を聴いてみたが、チェンバロ演奏と比較して「劣る」という印象は受けなかった。
 「平均律」との大きな違いというべきか。
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ホールとサロン(2)

2023年09月05日 06時30分00秒 | Weblog
エフゲニー・スヴェトラーノフ: 12の前奏曲
ラフマニノフ(田所編):    ヴォカリーズ Op.34-14
チャイコフスキー:歌劇『地方長官』の主題による「ポプリ」
ヘンゼルト:          12のサロン風エチュードより
 アヴェ・マリア Op.5-4
 愛の詩 Op.5-11
グラズノフ:          サロン風ワルツ Op.43
ラフマニノフ:         サロン小品集
 ワルツ Op,10-2
 ユモレスク Op.10-5
チャイコフスキー(プレトニョフ編): 演奏会用組曲「くるみ割り人形」Op.71

 「くるみ割り人形」目当てで行ったコンサートだが、「ホール」というのに「サロン」的な雰囲気が楽しめる、不思議な会場である。
 ショッピングセンターの中にあるせいか、買い物帰りと思しきマダムたちや子ども連れの姿があって、アットホームな雰囲気を醸し出しているのだ。
 アナウンスにも感心する。
 「客席内での飲食はお控え下さい。また、飴の袋を破ったりしますと、鑑賞の妨げとなりますので、このような行為もお控え下さい。」というアナウンスがあったのだ。
 先日国立劇場で開催された「舞台芸術のあしたへ」では、何度も泣き出しては会場外に連れ出される幼児、頻繁に会話をする夫婦、袋を破って飴玉を取り出したりペットボトル飲料を飲むお客さんなどが頻出し、かなり不快な思いをした(もともと国立劇場はこういう劇場なのだろうか?)。
 無神経なマナー違反行為の中で最も私が嫌うのは、飴玉を袋から取り出す行為である。

 「ポピュラー音楽と違い、アンプで音を増幅せずに、楽器自体の音とホール内の反響のみで聴かせるクラシック音楽は、耳をすませば全てが聞こえるほど緻密で階層の深い表現である一方で、ちょっとしたノイズが聞こえるだけでもかき消されかねない繊細さがあります。
 そのために、コンサートホールは、外部からの音を遮断するような構造になっていますが、内部からの音は、遮断しようがありません。
 そのような空間の中で、飴玉の包装紙を開ける音が、どれほど大きく聞こえるでしょうか。
 演奏中に、鞄の中からおもむろにのど飴を取り出す行為は、飴玉の所有者とそれを見守る観客、両方に対して、極度の緊張を強いることになります。

 ちなみに、今回は、コンサートでときどきみかける「鈴を付けたハンドバッグ」を持ち込むマダムも幸いなことに居なかった。
 コンサートの会場というのは重要なもので、ホールとサロンでは、音の響き方が違ってくる。
 会場に応じて、適した曲目もおのずと定まる。
 例えば、ショパンのノクターンなどの場合、大型ホールの後方座席では細かい表現が十分聴き取れないこともある。
 なので、この種の曲目は、サロン風の会場で弾かれるべきなのだ。
 おそらく、主催者側もその辺を理解した上で曲目を選定しており、「サロン風」の作品が並んでいる。
  面白かったのは、アンコールで、かの文豪トルストイが作曲した「ワルツ」が演奏されたこと。
 これはさすがに私も初めて聴いた。
 感想は、「可愛らしい、シンプルな曲」というもので、やはりサロン向きの曲である。
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ひとり別格(6)

2023年09月04日 06時30分00秒 | Weblog
 このように、「生のなかば」という詩は、1連と2連とで対照的な二つの世界に分かれており、ここにおいては、2連がいわば「中間休止」として位置づけられる。
 だが、2連の内部で「中間休止」がいくつか使用されているので、全体としてみたときには、入れ子構造となっているわけである。
 さて、問題は、ヘルダーリンがどうして「壁」を超えてしまったのかであるが、よく言われるのが、統合失調症の影響である。
 確かに、この詩が作られたとされる1804年より前に、既に病気の兆候は見られた。

 「ランダウア―の仲介で、今度はフランスのボルドーに(四度目の)家庭教師の口を得たヘルダーリンは、1801年12月11日に母の許より出発し、一か月以上たった1802年1月28日にようやく雇い主であるマイヤー家に到着し、四人の娘の教育にあたるものの早くも5月半ばにヘルダーリンは去っている。6月末にシュトゥットガルトに戻ってきたときには、錯乱状態にあり風貌もヘルダーリンとわからないほどの変わり様であった。」(p33~34)

 だが、先入観なしにこの詩を読んでみると、実に論理的な構成になっている。
 私見ではあるが、少なくともこの詩がつくられた時点で、ヘルダーリンの病状が深刻であったとは考えにくい。
 むしろ、ニーチェなどもそうであるように、病状が浅い段階、あるいは一時的に良化した時点における創作は、常人では到底達成できないほどの素晴らしいものがあり得るわけであり、「生のなかば」もその一例なのではないかと思う。
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ひとり別格(5)

2023年09月03日 06時30分00秒 | Weblog
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen 

障壁(へき)は言葉なく、冷かに連なりて、
風吹くなべに風見(かざみ)ぞきしめく。
(訳:吹田順助)

 最後の Fahnen が難物である。
 「旗」という訳もあるが、「風見」が多数派のようであり、これが正しいと思う。 
 というのは、klirren は、「クラッシュすることによって、かき鳴らして、明るく振動する音を作り、鳴り響く音を出す」という意味なので(ドイツ語でKLIRRENはどんな意味ですか?)、これは金属製の風向計と見るのが妥当だからである。
 複数の「風見」がカラカラと回っているのだから、ここには生き物は一切存在しないけれども、風は吹いているわけだ。
 つまり、(当然のことだが、)ここには空間が存在しており、したがって時間も存在していることが示されている。
 このことは、「時間のない世界」(又は「空間のない世界」)の例と比べると分かりやすい。
 その典型は、「野いちご」に出て来る「針のない時計」である(映画鑑賞「野いちご」(1957年)の2つめの写真)。
 これは「時間のない世界」、つまり死の世界を象徴している。
 対して、「生のなかば」の2連の世界では、風が吹いており、空間も時間も存在している。
 したがって、ここは「あの世」(jener Welt)ではなく、この世の「半分」なのである。
 なお、「風見」も「壁」も複数形であるところからすれば、「風見」は動きを止めた個々の生命体を表しており、「壁」は個々の生命体をもう一つの「半分」の世界から隔てる障壁を意味しているようだ。
 
 
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ひとり別格(4)

2023年09月02日 06時30分00秒 | Weblog
(2連)
悲しいかな、どこで、冬ならば
花を見つけるのだ、どこに
陽の光を、
そして大地の影を?
壁は立っている
ことばなく冷たく、風の中で
風見がからからと鳴る。
(子安ゆかり先生の訳)

 2連の構成・韻律について、子安先生は、「一つの文を構成することなく、詩句は分断されている」、「韻律は非常に乱れている」と指摘する(前掲p63)。
 (2連における唯一の生物である)「花」と「陽の光」はもちろん、「大地」に至っては「影」すらも、その不在が強調される。
 「生き物たちが活動している世界」は目の前から消えて、私ひとりが取り残されたかのようだ。
 私の目の前には「壁」が立っており、「生き物たちが活動している世界」との間を隔てている。
 ところで、「壁」と言えば、私はやはりニーチェ先生を思い出す。

 「わたしの言うことを信用せよ、わたしの兄弟たちよ! 身体に絶望したのは、身体であった、ーーー身体こそが、昏迷せる精神の指でもって、最後の壁を手探りしたのだ。
 わたしの言うことを信用せよ、わたしの兄弟たちよ! 大地に絶望したのは、身体であった、ーーー身体こそが、存在の腹が自分に話しかけてくるのを聞いたのだ。
 そこで身体は、頭でもって、また頭でもってではなく、最後の壁をつらぬき、ーーー「あの世界」へ超え行こうとした。」(p57)

 この「最後の壁」は「あの世界」(jener Welt)、つまり「あの世」との間の「壁」であるが、「生のなかば」の2連で言うところの「壁」は、「最後の壁」ではない。
 「生」の世界を半分ずつに分断する、いわば「最後の1つ前の『壁』」なのである。
 私(ヘルダーリン)は、どういう訳か、その「壁」を乗り越えたところに来てしまったようだ。
 
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ひとり別格(3)

2023年09月01日 06時30分00秒 | Weblog
子安ゆかり先生は、高名なピアニストであるだけでなく、東大の大学院で学び博士号を取得したという凄い方である。
博士論文には、この詩についての解説がある。

 「色彩に富み調和的な風景が描かれる第一連と非調和な冬の情景を描く第二連は、例えばアドルノが言うようにこの二連がアンチテーゼとしてそれぞれがそれぞれを必要とするという意味で一つであり、その上で並列的な形式で並べられ「生そのものの両半分に切れ目を入れる」ということであるならば、その「切れ目」は中間休止であると考えることができるだろう。・・・
 ・・・このように「生の半ば」の韻律を解釈するならば、ヘルダーリンがソフォクレスの悲劇論で展開した中間休止の役割と効果を、実際の詩作にも活かしていたと考えられるのである。」(p62~63)

 一般人の詩の解釈は、意味論に終始して音韻論にまでは手が回らないことが多い。
 だが、子安先生はさすがに音楽家なだけあって、韻律にも焦点を当てている。
 そして出て来たキーワードが、「中間休止」(カエスーラ)である。
 ちなみに、上で省略した箇所では、韻律と「中間休止」について具体的に解説されている。
 子安先生も示唆するように、ヘルダーリンは、"Hälfte des Lebens" という語を、「動いている生の半分」と「休止している生の半分」という意味合いで用いたのかもしれないのである。
 他方、第二連で意味論的に重要な語は、私見では
① 壁
② 風見
と考える。
 

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