先日、ある人が言った
「この商売、肝心なのはKDD」
「KDD?」
「勘(K)、度胸(D)、どんぶり勘定(D)のこと」
なるほど、最後のどんぶり勘定には少し疑問が残るけれど
言わんとすることはわかるような気がする
どこか「よそ者、若者、馬鹿者」に通じるものがあるようだ
未来は「わからない」 というのが一番正直なところだろうが
心配症な人間は未来を予想したがり
過去のデータによってある程度の範囲に収まる未来を
間違いないものと考えがちになる
だがその過去のデータも実は
そのデータを引っ張りだす時に既に
ある方向性を向いていて、自分が納得できるものを
探し出してきているに過ぎないことが多い
ある国では
「過去は目の前にあり、未来は背後にある」
と考えられると言う
なぜなら、過去は見ることができるが
未来は見えないからだそうだ
「目の前には洋々とした輝ける未来が、、、」
と決まり文句のように口にするこの国とは
全く違っている
それはさておき、この「勘」というもの
「勘」というどこか無責任な響きがいけないのかもしれない
「勘」というより「洞察力」と言った方がいいかもしれない
おそらく「勘」や「洞察力」は
全ての人に等しく現れるものではなく
物事に真剣に取り組んでいる人にだけに
ちょっとした贈り物みたいに与えられるものだろう
つまり、未来はある人にとっては
「勘」によって導かれるものとなる
だが残念ながら、物事はそうは簡単にいかないことが多い
幾分かの挫折は必ずやってくる
その時に乗り越えるのは気力(そしてそれを支える体力)
この意味では未来に「勘」で「度胸」をもって取り組むことは
実は若い人にしかできないことかもしれない
だから若い人には、やはり未来は
「やってみなければわからない!」
と挑戦的な態度で取り組んでもらいたいものだ
(若い人には、やり直す時間もあるし
怖いもの知らずのよい意味での無知であるし
そして、データの蓄積がないから
余計な心配はしないですむのだから)
ところで自分は?
残念!
様々な情報があり過ぎて、目前にあるのは
それほど輝かしくない未来ばかり(?)
だがこのように慎重に(?)なるのも一つの知恵だし
何らかの意味はあるだろうから
年齢に応じた考え方をするのは仕方ないかな
「この商売、肝心なのはKDD」
「KDD?」
「勘(K)、度胸(D)、どんぶり勘定(D)のこと」
なるほど、最後のどんぶり勘定には少し疑問が残るけれど
言わんとすることはわかるような気がする
どこか「よそ者、若者、馬鹿者」に通じるものがあるようだ
未来は「わからない」 というのが一番正直なところだろうが
心配症な人間は未来を予想したがり
過去のデータによってある程度の範囲に収まる未来を
間違いないものと考えがちになる
だがその過去のデータも実は
そのデータを引っ張りだす時に既に
ある方向性を向いていて、自分が納得できるものを
探し出してきているに過ぎないことが多い
ある国では
「過去は目の前にあり、未来は背後にある」
と考えられると言う
なぜなら、過去は見ることができるが
未来は見えないからだそうだ
「目の前には洋々とした輝ける未来が、、、」
と決まり文句のように口にするこの国とは
全く違っている
それはさておき、この「勘」というもの
「勘」というどこか無責任な響きがいけないのかもしれない
「勘」というより「洞察力」と言った方がいいかもしれない
おそらく「勘」や「洞察力」は
全ての人に等しく現れるものではなく
物事に真剣に取り組んでいる人にだけに
ちょっとした贈り物みたいに与えられるものだろう
つまり、未来はある人にとっては
「勘」によって導かれるものとなる
だが残念ながら、物事はそうは簡単にいかないことが多い
幾分かの挫折は必ずやってくる
その時に乗り越えるのは気力(そしてそれを支える体力)
この意味では未来に「勘」で「度胸」をもって取り組むことは
実は若い人にしかできないことかもしれない
だから若い人には、やはり未来は
「やってみなければわからない!」
と挑戦的な態度で取り組んでもらいたいものだ
(若い人には、やり直す時間もあるし
怖いもの知らずのよい意味での無知であるし
そして、データの蓄積がないから
余計な心配はしないですむのだから)
ところで自分は?
残念!
様々な情報があり過ぎて、目前にあるのは
それほど輝かしくない未来ばかり(?)
だがこのように慎重に(?)なるのも一つの知恵だし
何らかの意味はあるだろうから
年齢に応じた考え方をするのは仕方ないかな