パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

個人宅の能舞台

2009年09月05日 08時23分17秒 | Weblog
自宅に茶室を設けている家は
それなりにあるだろうと想像がつくが
それが能舞台となると、果たしてどれだけの数があるだろう

昨日、そんな個人所有の能舞台を拝見させてもらった
(豊橋市 西村能舞台)
能には詳しくないどころか全然知識が無いが、聞くところによると
3間四方の正式な大きさ、後ろには松の大きな絵があって
橋懸かりこそないけれど本物に遜色無いとのこと
そして舞台の前には、およそ50人の大人が座る事のできる
畳の間がある

これは病院経営の先代が
出身地 加賀の文化の思い出と自身の芸事に関する興味も
相まって作り上げたらしい

ところが残念なことに、現在この立派な設備は
充分に活用されていない
そもそも能自体がそんなに大勢の人が楽しんでいるものではないし
最近はますます能離れの傾向が進みつつあるらしい

そこでこの立派な能舞台
他の利用も兼ねる事にしている
音楽会の発表会の練習
唄の練習などなど

しかし、この稽古事、趣味の練習会場、発表会会場は
近所の公民館やホールで事足りているのが現実

ここでは半日5000円、1日10000円で使う事が
できる事になっているけれど
公民館等では何百円単位で借りられるので
一般的にはそれで済まされている

しかし、つくづくもったいない
確かに個人の趣味の産物と言えばそうなのだが
このようなモノは使われてなんぼのもの
充分に活用されていない事実と
こんな風に手間をかけてつくられた、
ある種日本の文化自体も軽んじていられるようで!

この日自分は、良いものを見せてもらった!
なんとかもっと活用されるようにしなければ
と多少興奮気味で、その思いを知り合いに告げたのだが
彼の反応はいたって冷静
というかあまり興味はなさそう

客観的な事実として
その場所の利用については価格設定が
地区の公共の施設と比べて高めだし
発表会をするには観客席が少なすぎるから
なかなか現実的には使いにくいのでは!との評

確かにその通りだろう
この場所を貸しホールという括りで比較すれば
答えはそこに落ち着く
しかし、一種の文化財のなかで
時間を費やす事ができる価値を認める人々には
その建築の佇まい、雰囲気だけでも
料金以上の意味が感じられるのでは
と思う(思いたい)のだが

問題は、こんな風に価値を感じる人々が
世の中に多く存在するかどうかという事
残念ながらこれには否定的にならざるをえない
この能舞台を建設当時には、
所謂文化人の集いみたいなものが割合見られたようだが
最近では損得の集まり、見栄の張り合いの集いはあっても
おっとりした豊かな教養を味わう機会は無いようだ
(自分が知らないだけならいいのだけれど)

トーマス・マンが「ブッデンブローク家の人々」で現したように
裕福な家庭で何代目かの人物が
芸術に関心が行くようになると
その生命力は落ちてしまうとするのは
何となく分からないではないが
その事を嫌っていつまでも文化不毛のままでいるのは
ちょっとばかり寂しい限りだ

文化の無い町、都市、地方
それらは正直つまらない
何が文化か?という事はさておいて
一般的に文化不毛といわれるこの地区
どうすれば文化活動を活発化できるか?

西村能舞台の利用方法などは
この地区の文化程度の試金石に
なるのでは?

それにしても
使わなければ本当にもったいない





コメント
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