まじめに取り組んでいる読書から
今日は気になって書き留めたフレーズの紹介
まずはピケティから
経済学という分野は、まだ数学だの純粋理性的でしばしばイデオロギー偏向を伴った
憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服出来ておらず、
その為に歴史研究家や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。
経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、
どうでもいい数学問題にばかり没頭している。
この数学的への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、
それをいいコトに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。
実を言えば経済学者なんて、どんなことにもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。
いずれにしてもそれこそが経済学、社会科学一般の魅力なのだ。
これは本の割合最初の方に出てくる
この視点はピケティの知性を感じさせる
ついで同じくピケティ
「資本収益はしばしば、本当に起業的な労働(経済発展には絶対必要な力)、
全くの運(たまたま適切な時機に、有益な資産を良い価格で買う)、
そして明白な窃盗の要素を分かちがたく結びつけたものだというのが実情だ」
経済的な成功は努力、運、そして窃盗と言い切っているところがすごい
またまたピケティ
18世紀や19世紀を研究すると、物価や賃金、あるいは所得や富の推移というのが
自律的な経済の論理にしたがったもので、政治や文化の論理とは全く無関係だと思えてしまう。
でも20世紀を研究すると、こうした幻想は即座に崩れる。所得と富の格差を示すグラフや、
資本/所得比率を一瞥するだけで、政治がいたるところに影響し、
経済と政治変化が不可分に絡み合っているから双方をいっしょに研究すべきだと分かる。
すると研究者は、国家、税、負債を具体的な形で研究するしかなくなり、
経済の下部構造と政治の上部構造という単純で抽象的な概念は捨て去るしかなくなる。
たしかに、専門特化の原理は健全なものだし、
一部の学書が統計的な時系列データに依存しない研究をやるのもそれで正当化される。
社会科学のやり方は無数にあるし、データを積み上げるのは必ずしも不可欠ではないし、
ことさら想像力豊かとさえ言えない〈これは認めよう)
でも、私は、あらゆる社会学者、あらゆるジャーナリストや評論家、
労働組合や各種傾向の政治に参加する活動家たち、そして特に市民たちは、
お金やその計測、それを取り巻く事実とその歴史に、真剣な興味を抱くべきだと思うのだ。
お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする。
数字との取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことなど、
まず絶対にあり得ないのだ。
政治抜きに経済だけを論ずることはできないということ
もう一つピケティ
理屈の上では、富裕国が貧困国の資本の一部を持つのは、
収斂を後押しすることで良い影響を持ちえる。
富裕国の貯蓄と資本がだぶついて新規の住宅建設や新規の機械設備追加の理由もあまりない場合、
その国内貯蓄の一部を外国のもっと貧乏な国に投資するのは、集合的に効率が高くなる。
こうして富裕国、あるいは少なくとも手持ちの資本の余っている富裕国の住民たちは、
外国に投資することで多くの投資収益を得られるし、貧困国は生産性を上げ、
富裕国とのギャップを詰められることになる。
古典派経済理論によると、このメカニズムは、世界レベルの資本音自由なフローと、
資本限界生産性の均等化に基づくもので、富裕国と貧困国との収斂につながって、
いずれは市場の力と競争を通じた格差縮小をもたらすものだ。
でもこの楽観的な理論は、多くな欠陥を2つ抱えている。
まず、純粋に論理的な観点からして、この均衡化メカニズムは
一人あたりの所得の世界的な収斂を保証するものではない。
せいぜいが、一人あたりの算出の収斂をもたらせるだけだし、それも資本の完全な移動性と、
もっと重要な点として国同士の技能水準と人的資本が等しいという想定があって初めて成り立つ。
これは決して小さな想定ではない。
いずれにしても、一人あたりの算出の収斂があり得るからといって、
一人当たり所得が収斂するということにはならない。
富裕国が貧しい近隣国に投資すると、それをいつまでも所有し続けかねず、
その所有比率はすさまじい割合まで高まりかねないので、
富裕国の一人当たりの国民所得は貧困国のものより永続的に高いまま逗まることになり、
貧困国は外国人に、市民たちが生産するもののかなりの割合を支払い続けなければならない。
こうした状況が生じる可能性がどのくらいあるかを見極めるためには、
貧困国が富裕国に支払ねばならない資本収益率と、富裕国と貧困国の経済成長率とを比べばければならない。
だがその方向に進む前に、まずはある国の資本/所得比率の動学について、もっとしっかり理解しなければならない。
更に歴史的記録を見ると、どうも資本モビリティが富裕国と貧困国との収斂を促進する要因だったようには見えない。
最近になって先進国に近づいたアジア諸国は、どれも一つとして巨額の外国投資の恩恵は受けていない。
これは日本だろうと韓国だろうと台湾だろうと、もっと最近では中国だろうと同じだ。
基本的には、こうした国はすべて、物理資本への投資、それ以上に人的資本に必要な投資を自力でまかなったのだ。
人的資本は最近の研究によれば、長期成長の鍵となる。逆に、他国に所有された国は、
それが植民地時代だろうと今日のアフリカだろうと。あまり成功していない。
その理由として最も顕著なのは、彼らが専門特化した分野は将来の発展の見込みが
ほとんどない分野分野だったこと、そして慢性的な政治不安定にさらされていることが挙げられる。
そうした不安定の一部の理由は次のようなものかもしれない。
ある国のかなりの部分が外国人に保有されていると、
それを自国に収用しろという抑えきれない程の社会的要求が繰り返し生じるのだ。
それに対して他の政治アクターたちは、既存の財産権が無条件で保護されないと投資も開発も不可能だと反論する。
これによってその国は、革命政府と既存の財産保有者保護に専心する政府との果てしない交換に捕らわれてしまうのだ。
同じ国民コミュニティうにおいて、資本所有の格差はそれだけでも受け入れ難いし平和に維持するのも困難だ。
国際的には、植民地型の政治支配なしにはこれを維持することはほとんど不可能だ。
誤解なきよう言っておくと、世界経済への参加はそれ自体がマイナスではない。
自給自足が繁栄をもたらしたことは一度もない。
最近世界の残りに追いつきつつあるアジア諸国は、
明らかに外国の影響に対して自国を開放したことで恩恵を被っている。
でも、財やサービスの開放市場や、有利な交易条件からの恩恵の方が、
自由な資本フローからの恩恵よりもはるかに大きな利益をもたらしている。
まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、
知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、
それが同水準の技術ノウハウや技能を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。
知識の普及は天から降ってくる恩恵とは違う。
何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、
各種の経済アクターに当てに出来るような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。
だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。
簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。
これらの言葉を読むとピケティは単なる技術屋としての経済がkスハではないことが分かる
かれは長い歴史を持つ西洋哲学の継承者だ
さてピケティから離れてハンナ・アーレントの言葉
道徳的な知識の源泉が何処にあるにしても、それが神の命令であるにせよ、
人間の理性にせよ、健全な人間であれば、自らのうちで、ある〈声〉が語りかけていて、
その土地の法にもかかわらす、また仲間たちの意見にもかかわらず、
この声がその人に善と悪の区別を教えるものだと想定されているのです。
カントはかつて、そこには困難な問題があることを示唆していました。
「まったく悪党どもと暮らしていたのでは、どんな人でも得の概念を持つことはできないだろう」と。
自らの声を信じること、感情に任せるのではなく静かに沈潜した思考のうちに
沸き上がってくるもの、それを信じようとする心
こうした自分の心と社会との関連を真剣に考えぬく姿、生き方は
とても参考になる
本当はこんなふうに抜き出してはいけないのかもしれない
〈著作権的に)
でも、何故か今日はこの様に彼らの言葉を伝えるのが
正しいことのような気がする
ここまで読んでくれた人には感謝を!
そして、良いことがありますように