ブルックナーの8番の交響曲
今では人生の中で一番聞くことの多い交響曲になっている
手持ちのアルバムもフルトヴェングラー・シューリヒト、クナッパーツブッシュ
カラヤン、ハイティンク、ワルター、チェリビダッケ、朝比奈隆、ジュリーニ、ギーレン、
バレンボイム、セル、テンシュテット、インバル、ヨッフムなど
特に第3楽章は大好きなのだが、それでも初めて聴いた時は
終楽章は一体何処に向かおうとしているのか
全然理解できなかった
最後に全楽章の主題が同時に演奏される統一感が
あるというものの、実際にはなんかバラバラの印象がしたものだ
しかし、たくさん聴いて慣れてくるとそうでもないと思うようになった
ブルックナーの頭のなかで必然であったものが
自分の頭のなかでも必然と思えるようになった
未完の9番の交響曲
数年前にラトルが補筆版で4楽章を演奏したCDが発売された
彼の話によると4楽章のスコアの大半は出来上がっていて
それに少しだけ補筆したのだという
とにかく慣れてしまうまで聞くとそれは素晴らしい世界が
訪れるとも言っていた
これは自分の8番の経験と同じことかもしれない
と思い、最近その終楽章を我慢して(?)聴いている
最初の印象は、やはり何処に向かうのかわからない
このバラバラなものをまとめる力技はブルックナーにしかできないし
その時間がなくて補筆されたのは未完の域を出ない
と思ったものだ
だが少し慣れてくると案外いけるかもしれないと思うようになった
8番の交響曲でも初稿は普段の演奏会のまとまりの良い音楽ではなくて
素朴な田舎のおじさんの音楽という気がしたが
なんとなくその時の印象に似ている
ブルックナーはプロデューサーのような存在の人がいないと
ただただ素朴な神を称える音楽しかかけなかったのかもしれない
評判の悪い?アドバイスもまとまりの良い劇的な音楽に変えるのには
役立っている
もう少し時間があればブルックナーは少し手を入れて
今よりも効果的とかまとまりの良いものを作り上げただろう
と容易に想像できるが、それでも今はこの演奏を聴いて
4楽章全体で何を残そうとしたのかを考えてみるのも
贅沢な時間かとも思う
まだまだこの終楽章はしっくりこなくて中途半端な感じがするが
大半はできていたの言葉を信じて、もう少し我慢してみよう
ところで、この何処に行くかわからない音楽
時に滔々と流れる旋律
これはフルトヴェングラーの2番の交響曲の1楽章に
印象として似ているように感じたが、フルトヴェングラーが自分の指揮者としての
キャリアの最初にブルックナーの9番を演奏したというのが
なんとなく納得できる
フルトヴェングラーもブルックナーが感じた音の世界を感じていたのかもしれない