長い長いヴァーグナーの畢生の大作「ニーベルングの指環」
その第3番目の演目「ジークフリート」を6月7日(水)新国立劇場見た(聴いた)
愛知県の田舎にいると指環を見ることはないと思っていたが
一昨年ちょいと足を伸ばして飯守泰次郎さんの「ラインの黄金」を見て
それが思いの外面白かったものだからこのチクルスを全部見ることに決めた
最近はオペラとかリートとか歌詞のあるのもは、老眼が進んで
文字を追いながらレコードやCDを聴くのがしんどくなっていて
ストーリーを追わずとも聴ける純音楽の方が楽でいい
と言っても折角の機会、持っているカラヤンの「ジークフリート」で
少しだけ予習した
ただあまり予習しすぎると現場での感動が薄れるかもしれないので
純音楽を聞くように歌詞は無視して音楽のみに耳をそばだてた
予習という点では もう一つ「ジークフリート」の公式HPの飯守泰次郎さんの
ピアノを使ってのライトモチーフの解説を見た(Youtubeにアップされているもの)
これがなかなか役立つ
ライトモチーフを知っているだけでストーリーの行間に流れるものが
理解できる(今流行の言葉を使うなら、ストーリーを忖度できる)
会場で始まる前、オーケストラの人たちがそれぞれ自分のパートのおさらいを
しているのが てとも気分を盛り上げる
それぞれがライトモチーフを演奏する
ファーフナーや魔の火、ノートゥング、運命、ワルハラのそれなど
バイロイトのように数分前のファンファーレはなくても
直ぐに行われるパフォーマンスに期待が高まる
このシリースは3回目となるのでだいぶ慣れてきた
歌詞が舞台の左右に表示されるが、大きな視点の移動をしなくても
さっと内容だけ理解して、舞台に集中して筋を追うことができる
最初に感じた歌手陣のパワフルな歌声も
今回はそれに圧倒されることなく、むしろストーリーをより効果的に
支えているものとして、つまり音楽の一部として聴けた
こうした楽劇とかオペラを見る時、音楽を聴いているのか
それとも筋を追っているのか、、時々わからなくなる
ライトモチーフの雄弁さを感じる時は明らかに音楽を聴いているような気もするし
興味はストーリー展開の方に支配されるようだし
結局はヴァーグナーの言うような総合芸術としての全体を感じているのかもしれない
あまりストーリーの予習をしなかったお陰で(?)舞台は面白く見ることができた
次はどうなるのか、、そんな興味がずっと続いた
特に「ジークフリート」ではダイジェストで使われる「森のささやき」のある
第二幕が大蛇の退治や叙情的なところもあり興味深かった
(この物語は メルヘンなのか神話のプロトタイプなのか)
物語は上の画像のように長い
第三幕もヴォータンの行く手を阻む試練も、自ら鍛え上げた剣で
ジークフリーは乗り越えて行く(ヴォータンのは内心喜ぶ)
そして炎に包まれ眠っているブリュンヒルデを発見
そして彼女の目を覚ます
その時に今まで知ることのなかった「怖れ」というものを知ることになる
このあたりのストーリーはパルジファルの場合にも2幕での
クンドリーとの関係で「同情を知る」という過程に似ていて
ヴァーグナーの定番のようなものかもしれない
そこまでは良かった
しかしそこからが長かった
ブリュンヒルデが目覚めてからジークフリートと運命をともにしようと
決心するまでが、話が行ったり来たり、、なかなか前に進まない
(まるで女性が焦らしているような、、、、)
少しこの部分長すぎるよな、、ヴァーグナーの脚本家としての限界って
こんなところにあるのだろうか、、、と思ったりした
結局、やはり筋を追っていたのかもしれない
指環は「筋を追う」物語なのかもしれない
だからこそ多様な読み替えの演出が後から後から生まれてくるのだろう
でも音楽がなかったら、ライトモチーフの複雑な感情を暗示させるものがなかったら
ここまで楽しめたかはわからない
歌手陣はヴァーグナー歌いで著名な方たちらしい、最近はレコード芸術等の雑誌も
読むことはなく、情報に疎い
その分偏見なしに目の前のものが良いか悪いか、好きか嫌いかが判断できる
この意味では評判通り歌手陣はすごかった、、、と思う
指環は残すところあと「神々の黄昏」だけになっている
ここまで来たのだから、今年の秋も見る(聴く)つもり
話が全部終わって、今まで奏でられたモチーフがいくつも登場し
振り返って、黄金が元のようにライン河にもどるそのシーン
つまりは大団円に向かうその音楽の効果はどんなものか、、、早く知りたい
ヴァーグナーは天才か、人の心をつかむ怪物か、、、