パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ボーッと連想に身を任せる心地よさ

2019年01月05日 08時22分49秒 | 徒然なるままに

昔はボーッとしてるのが得意だったし好きだった
(チコちゃんに叱られそうだが)
山を見て、海を見て、電車の車窓から流れる景色を見て
心に浮かんでは消えるよしなし事を、その勝手気ままな流れに任せて
何も考えずにただ感じるままに身を任せているのが心地よかった

いつの頃からかそれができなくなっていた
いつも何かに追われるように、何もしない無駄な時間は忌むべきもの
と考えるようになっていた
いや考えてはいない、ただボーッとした時間を費やすことはイライラするようになっていた

お正月の来るべき人たちが来る少し前
外は冷たいが日差しが柔らかななか、食べるほうは充実しているがエネルギー消費は
全くできていないので、正月太りが気になり少し歩いてみることにした

ダウンを着込んで、古くて色が禿げてるが歩きやすい靴で一時間位かかるコースを
目指して歩いた

目的がないと、なかなかそのリズムにはのれない
あたりの景色もいつも見ているもので新鮮味がなく、特に何かを連想させるものでもない
イマイチのれない気分のときに不意に「カー」とカラスの声がした
カラスの影が地面をすっと通り過ぎていく
その瞬間から神経は昔のボーッとしている時のモードになった
京都のお寺さんにいるときも、フルトヴェングラーのお墓にいたときもそうだったが
鳥の声は耳にとどくというよりはもっと内側のなにかに響くようで、それが連想の連鎖のきっかけになった

歩いていると耳に入るのは「シュッ、シュッ」というダウンのコートの擦れる音
定期的にリズミカルに歩くリズムを決めるかのようだ
すると頬に風が当たり、耳の横を風が過ぎる
冷たい風だ
この頬と耳元を通るすぎる風の音は何と表現したらいいのだろう
「ゴーッ」では違う
定番の「ビューン」でなんか違う気がする
それであれこれこの音の適切な表現を探してみたが、どれもどこか違う
仕方ない、この音を頬と耳元で感じて記憶していくしか無い

こんなふうに一人で歩くのが昔は好きだったな
昔元気な頃、山に向かったのは、達成感とか頂上からの景色とか、フッと過ぎていく風の心地よさというよりは
歩いているうちに段々余裕がなくなって、知らず知らずに自分との対話をするようになって
「自分が自分になっていく」感覚が好きだったからじゃないのかな、、
そんなことが頭に浮かぶ

歩いていると少し身体が暖かくなる
胸のあたりが少し痒くなる
運動で血液の循環が良くなって毛細血管まで血液が行き届いてるからだろうか
そんなことを勝手に決めつける

ダウンの擦れる音から今度は靴音が気になりだす
右足と左足の靴の音は少し違う
(片方は道筋を選び、片方はテンポを決めるような、、)
やっぱり人間は完全に左右対称とはいかないものだ

「おー久しぶり!」
地区の公民館の向こうからやってくる数人の中に懐かしい顔を見つけた
同級生だった
彼に家に子供のころ遊びに行って大騒ぎしてたら彼のお父さんに
「お父ちゃんは仕事してるじゃないか」
と怒られた記憶がよみがえる
と同時に同級生の顔を見て、彼は若くみえるのだろうか、それともそれなりなんだろうか
とすると、自分ではよくわからない自分の見られ方も、他人から見ると
このように見られるのだろうか、、、とガッカリするような、諦めるような、、、

あいさつだけで何かを話すこともなく一時間コースを黙々と続ける
また風が頬と耳元を通りすぎる
うっすら背中に汗を感じる
それまで気づかなかったことがまたもや目に入る
ある家のブロック塀の外に茂った何かの葉っぱが光っている
まるで水面の反射のようにいくつもキラキラと
あれは葉についた水滴が反射してるのだろうか、、
気になって通り過ぎるときよく見ると水滴なんかじゃなかった
単に葉っぱが光を反射してるだけだった

不意に学生時代の新緑の頃、自転車で学校に向かうとき葉っぱがキラキラして
きれいだな、、と訳のなく幸福感を感じたことを思い出した
これは至高体験(コリン・ウィルソンの本にあった言葉)のひとつだったかもしれない

約一時間の自分の時間は、携帯にはいった連絡で一気に現実世界に戻る
そこはちゃんとした起承転結のある世界
でも久しぶりのたったこれだけの勝手に浮かんだあれこれの連想のおかげで
何かとても充実した時間が送れたような気がしたのだった
ボーッと生きてんじゃねーよ!も事実だが
ボーッと連想に身を任すのもとても良いことのように思えてしまう




コメント
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