パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

嫌悪感を煽ってどうする!

2019年01月11日 14時59分58秒 | Weblog

たまたま目にしたテレビの昼のワイドショー
とても嫌な気分になった
元徴用工の件での日韓のゴタゴタを日本側サイドの視点で専門家(?)を交えて解説していた
それは1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している
この二国間の協定は国際法的にも国内法よりも上位で、それ故
韓国の対応は常識はずれとのトーンで話していた

だが、韓国は日本はこの理屈で反論してくると容易に想像できるにもかかわらず
日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないとしている
これは何らかの根拠があってのことに違いないと思えるが
仮にそれがこじつけであったとしても、専門家は韓国がどういう理屈をつけてくるかを予想して
解説するのが冷静なテレビ番組と思えるのだが、公平・中立なテレビがなにやら嫌悪感を煽るような
放送を意図的か無意識的か行っているようにみえる

このあとの話題がまたいけない
中国の少しみっともない話だ
特急列車の中、指定席券を持っていない人物が寝転んで、本来の人間が座ろうとしても座れなくなり
警察が退くように言っても聞かずに揉めているという画面が何度も繰り返される

この2つの報道を続けてみると、知らず知らず韓国は理不尽でひどい、
中国は市民の程度が低いとの思いを視聴者にもたらすことにならないだろうか(嫌韓・嫌中に繋がりそうな)
最初の徴用工の話題は少し仕方がないとしても、中国のこの話題はわざわざ報道する必要があるのだろうか

反対に中国の報道で、日本で問題になっている煽り運転の動画や
新宿のチーズドックの食べかけのゴミを所構わず捨ててるところや
日本を代表する企業が不正なデータをあちらもこちらの出しているさまを報道したならば
日本という国は思ってたよりもひどいな、、、
との印象を与えるに違いない
要は、これらのニュースをわざわざ流す必然性があるかということ

あいつらはひどいと煽るよりも、どの国も同じだな(子どもに対する思いとか親に対する思いとか)と
感じさせるような報道のほうが、最近のギスギスした世界においては必要なんじゃないのか
テレビ局が近隣諸国への嫌悪感を煽るようなところは、戦前の新聞記事を連想させる
みんな「正気にもどれ!」と言いたい気分

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書き残した文章2

2019年01月11日 09時02分53秒 | あれこれ考えること

昨日の続き  書き残した文章  丸山真男から

近代生活の専門的分化とは機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。簡単にその重要な契機を例示しますと、まず技術的専門家に特有なニヒリズムがあげられます。おおよそ特殊分野のエキスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かということについては全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に謀殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。これは単に自然科学の技術者に限らず、官庁とか大会社のような膨大な機構のなかで1つのデスクを持っている事務のエキスパートにも多分に見られる精神的傾向で、これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕するということになりやすい。

現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生しやすい。専門家に対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリッヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野まで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させていくのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成立しているものであります。アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくその家の住人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいと言えば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い方は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。

考えさせられる
若い人がこれらを読んだらどんな感想を持つんだろうか
「今の若いもんは、、」とロゼッタストーンに記された文句を、つい言いたくなってしまいそう

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