パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

書き残しておいた文章

2019年01月10日 09時40分45秒 | あれこれ考えること

本を読んでいて気になるところは付箋を貼って、あとでポイントを読みやすいようにしているが
時にはわざわざ書き起こし(書き残し)ておくこともある

今朝久しぶりに残しておいた文章を覗いてみた
どこからの抜粋か忘れてしまったが、多分保守についての本だったかと思うが
チェスタトンの気になる考察で、現実を踏まえてよく考えると納得できる

以下が抜粋

狂気については、〈狂気には一種異様な詩美があるとしたところで、それを味わうのにはこちらが正気でなければ始まらぬのだ〉と語られています。
その上で、〈想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである〉という論理が示されています。
チェスタトンは、〈狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である〉
と述べています。なぜなら、〈狂気の最大にして見まごうかたなき兆候は、完璧の論理性と精神の偏狭とがかく結合していることにある〉
とか、〈狂人の最大の特徴が何であるかを見た。無限の理性と偏狭な常識との結合である〉などと考えられているからです。

チェスタトンは、正気を語ります。〈正気な人間ならみな知っている。自分の中には動物的な一面があり、悪魔的な一面があり、聖者の一面があり、
そして市民としての一面がある。いや、その男が本当に正気なら、自分の中には狂人の一面さえあることを知っているはずだ〉と。

少しニュアンスは違うが人は「人の不幸は蜜の味」の気持ちを持つ半面、災害にあった人に対し憐れみの涙を流しボランティアに出かけたりチャリティ募金を行う
こうした二面性を認めた上で、できることなら一般的に正しいとされる行為が表に出るようになりたいものだ

ところで、90万円が100%当たるくじと、100万円が90%の確率で当たるくじ、そのどちらを選ぶか、、という調査をすると
人は前者を圧倒的に選ぶ傾向にあるそうだ
数学上の期待値は同じなのだが、経済心理学的には同じものとは考えないらしい
原発の事故の確率は限りなく少ないとしても、無いことによる精神的な安心感(事故がないこと)との比較選択をしてみると
地震の度にいつもヒヤヒヤしているよりは、それから開放されたいと思うのも無理はない
これは数学的な理屈の問題と言うよりは、人はそのように選ぶ可能性があるということで
このような人の傾向を認めないことは、数学的には事故の確率はゼロと言い切り続ける人たちは
実はあまり科学的で無いということかもしれない

ついでもう一つ書き残しておいたものから
吉田繁晴氏のメールマガジン「ビジネス知識源」から

経済学は宗教ではありませんが、個人学説を奉じる点で形成された学派には、
「検証をせずに信じる」という宗教的な感じもあります。

経済や株価の動きは、二度とは同じことは繰り返さないので、実験をした検証ができない。
このため論理破綻がないことを「信じる」のです。

科学は、現象から発見される論理なので「信じる、信じない」という態度はない。
しかし経済学は、同じ条件での実験ができないため、信じるか信じないか、になります。

経済学の前提になっているもっとも重要な仮説は、「人は自由に、経済合理的な判断ができる」ということです。
行動経済学が、未来の予想(プロスペクト)については合理的ではないと、実験を通じ、これに反論しています。

これもなんとなく頷いてしまう
よく整理できていないが、ずっと頭の中に気になってることを取り上げてみた
(どうでもいいことかもしれないけど)


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする