パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

職人さんの気持ち

2019年01月22日 09時38分07秒 | あれこれ考えること

写真は豊川稲荷の本殿の右側の廊下の奥にあったもので細かな細工が気になって撮影した
これが美術的に完成度が高いか、それほどでもないのか、定番的なものなのかはわからない
だがこうしたお寺さん(豊川稲荷は寺院)にいっていつも驚くのは、襖絵とか仏像とか
建具とかの意匠が呆れるほどの表現意欲に満ちていること

時には著名な人物の残したものが注目されるが、大半は多分職人と呼ばれる人たちの残したもの
ただ依頼主から要求されたことを粛々とこなしているだけ
写真のような派手っぽいものは少しは誰が作ったか注目されるかもしれない
だが、欄干とか手すりとか実用的だがどこかひと工夫されているようなものは
さほど注目されることはない(だろう)

しかし、その出来上がりは細部に気が行き届いて、どこか自分の思いを表してみたい
とも思いがあるのではないか、、と思ってしまう
出来上がったものを評価するのは依頼主やそこに来る多くの人かもしれないが
その前に徹底的に厳しく評価しているのはおそらく作っている本人
彼は一体どんな気持ちでいたんだろう、名前も知られることもないというのに

大阪城を作ったのは誰か、、という問いに
豊臣秀吉と答えるとブーと鳴って、答えは大工さんとするクイズがある
この時の大工の棟梁の名前は文献に残っているかもしれないが、それでも大半の仕事は
名前も知られていない普通の職人さん
その多くの職人さんがみんなレベルを一定に保ちながら何かを作り上げる
これは当たり前のようでも、よく考えるとすごいことのように思える

先日出かけた京都広隆寺では国宝となっている平安時代の仏像は、国宝の銘はあるが作者のそれはない
誰が作ったか知らないが、そしてそれは多分自発的と言うよりは誰かに依頼されている職人さんと思われるが
そこには細部に拘る表現意欲がここかしこに溢れている

人は何故、こうした面倒くさいものを創るのだろう
それもあるときは嬉々として、、
それがとても不思議な気持ちだ

表現意欲というのは自己実現とか自己承認欲求といったもの
そんなふうに今なら解釈されるのかもしれない
でもそんな難しいことを言わなくても、人は衝動的に、本能的に、何かを表現したいという
思いにあふれる生き物なのだろうか、、、とついつい思ってしまう

それでも出来上がった作品に確かに差があるのは事実
すごい人のははすごい
名もない職人さんも実はどこかわからないところに銘を入れているかもしれない
という気がしないでもない
その方がちょっと救われるような気がする

 

コメント
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