本を読んでいて最近特に感じられるのは、その本を書いている人物の総量というか全人格な全体像がなんとなく感じられるということ
これが最終的にその作者への好みにつながる
自分は太宰治が好きではないが、それは彼の文体の中にどこか意地悪な芝居っぽいところが見えかくれてしまうからだし
三島由紀夫も流麗な文体だがそこにもやはり人工的なもの意地悪そうなところが見えてしまうのが生理的に受け付けない感じを持ってしまう
もっともこれは一般化できることではなく、単に好みの問題なのだろうけれど
ところで、最近読んだ夏目漱石の「草枕」
これにはびっくりした(こんな内容だったとは)
冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この下りが有名だが、実はその後もかなり興味深い
いやむしろこの先のほうが夏目漱石の教養人としての総量を感じてしまう
その先の文章とは
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、──千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」
最近はこうした視点より経済価値に換算してその効果が評価されることの多いような「芸術分野」だが
夏目漱石は何を疑うこともなく芸術自体の存在価値を認めている
具体的には何も生産しないような無駄に思えること(芸術)が、人の心を豊かにするということで尊いとしている
これなんかはテレビに出てくる政治家や知識人の人たちに聞かせたい気分だ
繰り替えすが「草枕」はこんな内容だとは思わなかった
それは一種夢の中の出来事のよう(桃源郷の中の出来事のようなとの解説がある)
あるいはトーマス・マンの「魔の山」のサナトリウムでの出来事のよう
内省的な自分を見つめるところなどはサルトルの「嘔吐」やプルーストの「失われた時を求めて」を連想させる
だから本の最後にある解説文の、西欧的な価値観から東洋的な価値観へのシフトを表現したものというのは全く同意できなかった
むしろ、西欧的な小説(教養小説的な)を日本で実現しているのではとさえ思ったからだ
夏目漱石の総量は半端ではない
脚注がないとほとんど意味がわからない語彙の豊富さだけでなく
それを使用する主体としての語り手の全体がとても巨大なものとして感じられる
それを余裕派と言われることもあるらしいが、なんとなく納得する
この本はストーリーを追うものではないので、どこからでも抜き出して読むことができる
それとなく反戦の意図をにじませたり
暴走しそうな文明をちょいと批判的に眺めたり、、
例えば
「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら──世はめちゃめちゃになる。」
それにしても、夏目漱石の文章が難しく感じられるのは脚注にあるような難しい語彙があるからではなく
そもそもの彼の考えること、感じることが現代人には共感しにくくなっているからではないかと思える
それは世代・時代の違いと言うよりも現代人は人格の総量が少なくなっていて、現状の分析はできるが
それに対する判断は全人格的というよりは狭い範囲のなかに終止する習慣ができていて、それで良しとしているからではないか
ということで日曜の朝にはふさわしくないお話