本を読んでも自慢じゃないがすぐ忘れてしまう
そうならない方法は感想を述べあい、アウトプットすることらしい
なるほど確かに誰かに説明すると自ずと頭の中が整理されていく実感はある
最近手にした「欲望の資本主義」2 闇の力が目覚める時 のなかの
コーエン氏の章に「全員が芸術家のように生きなければならない社会の到来」というのがある
仕事を奪われる恐怖をもって迎えられているコンピュータ時代において代替えされないのは
非ルーティンワークだけで、求められる人間は自己責任のもと自己判断を行う
皆芸術家のようにならなければならないとされる
つまり常に自己改革をする人間たちというのだ(彼はこれを推奨しているわけじゃなく可能性を述べているだけだが)
しかし続いてフロイトの「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような
人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家はいつも創造性の欠如への恐怖にさらされている」
こんなことがサラッと書かれていたが、ここでいろいろ連想が羽ばたく
マズローの欲求の5段階説が頭に浮かんだ
人間は生理的欲求、安全の欲求・社会的欲求・承認の欲求・自己実現欲求へと段階的に
高次の欲求に上がっていくという仮説だ
これが仮に正しいとするならば、いろいろ問題はあるだろうが現在の社会は最後の段階
自己実現欲求の段階まで来つつあるのではないか、、とも考えられる
まだしっかり読んでないので間違っているかもしれないがハンナ・アーレントの「人間の条件」には
人間の行動を「労働・仕事・活動」の3つに区別し、高次なものはこのうちの「活動」とされている
(政治的な行動がそれに該当するとされている)
高次なものは必然個々の判断力に委ねられる
ここで問題なのは、人としての到達点の理想という形ではマズローとかハンナの言うような
ものが望ましいかもしれないが、果たして人はその責任の重さに耐えうるのかと言う点だ
フロイトの言うように、そのような生き方は不幸ではないか、、
との思いが自分にも思い浮かぶ
何もかも自分の責任においてすることができる(常識的な範囲内で)
それが理想的な姿
でも、全てが自分の責任の名で行い、失敗したらこれも全部自分が責任を負うとすれば
ひとはその重さを避けてしまいたいのではないか
自由を求めているが、思いっきり責任を伴うような判断はとてもかなわん
自由に何でもできるが、何をするのか自分で考えなくちゃならないのは面倒でかなわん
(リタイア組の時間の使い方など)
誰かが適度に指示してくれてそれに乗っかるほうが楽でいい、
庶民の感覚はこんなものではないかと横着者が板についている自分は思う
だからこそエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」という言葉を使い
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では大審問官の登場となるわけだ
ただ、誰かに責任転嫁したい思いはナチスの行動を黙認、結果的に支持した行動につながる
これもまた事実
自己判断よりも本人に安心を与える世間のそれは、正しい判断をするか、それとも暴走するか、、
気になるところだが、最近なんとなくこの世間のバランスが悪くなっている気がしてならない
この不安はどこから来るのか、、、
資本主義は成長・自己改革を前提にした運動だが、人は案外「安定」昨日と違わない明日
を望んでいるのではないのか、、と思ってしまう
相変わらずのまとまらない話