パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

内側と外側からの捉え方

2020年09月08日 12時01分58秒 | あれこれ考えること

またもや面倒くさくて、ややこしい話
内側にいるのと外側にいるとの違い
素朴な外側の考え方(一般人が素直に感じられるもの)は
専門的になると知らず知らず変わってしまうかもしれないということ

まずは、こんな例を紹介

冷戦の終わりに近づいたころ、ある女性政治学者がアメリカの大学にある「防衛技術センター」で研修を受けることになった
そこにいた研究員は、国際政治学者、防衛アナリスト、核兵器の専門家などで、彼らはほとんどが白人男性で、個人的に見れば、知的で上品でユーモアがわかる魅力ある人々だった。しかし、彼女は彼らの使う専門用語が気になって仕方ない。
第一打(ミサイルによる先制攻撃)対抗力(報復能力)限定核戦争、クリーンな爆弾(放射能を撒き散らさない核爆発)外科的にクリーンな打撃(正確無比な爆撃)付随的イメージ(軍事目標の爆発等で付随的に人命が失われる)等々。
言葉の背後には正視できないほどの現実(核による大量虐殺、黒焦げの死体、人々の苦悩)があるはずなのに、その現実のイメージから奇妙に隔離されたクリーンな言語世界に彼女は違和感を禁じ得ない。

ここまでは、想像できる。一般人の日常生活と、この防衛知識人の使う言葉は、別の世界に属している。
このような専門用語は普通は辞書には存在しないし、あったとしても使う余地がない。
つまりは一種の、空想の(想像の)世界のことと思われた。

ところが、ここからが問題で、そのように感じていた女性政治学者は2.3週間のうちに変化が訪れた
彼らの専門用語を話せるようになると、ものの見方も考え方も変わってきた
技術戦略的な言語の越がたい壁の外側に立っているのではなく、その内側に入ったからだ
彼女はその言語を話しはじめるだけでなく、その言語で考え始めるようになった
つまり当初感じた違和感はいつの間にか消えてしまったというのだ

話は飛ぶが、良心的な法律家(裁判官・弁護士)は自分たちの言い分が
詭弁に陥っているのを感じることがあるようだ
法律家になる前に感じた、一般人のものの捉え方が、専門家にあったゆえに知らず知らずできなくなって
自然法に基づく判断ができなくなっているのではないのか、、との自己反省だ

さて本題、
内側に(長く)いることによって、徐々に外側の人(普通の人)が感じている理屈・倫理観・正義感を
理解できなくなって、自分たちの現在住む小さな閉じた世界の理屈を筋の通ったモノと考えててしまうようになる
少しばかり危険なこの傾向が顕著に見られるところがある

正義(倫理的)ではないが違法ではない
結果的に私物化状態でも、私物化を意図したわけではない
金銭は渡したが集票を依頼したわけではない
何時間を費やして説明をしたから説明責任を果たしている
(長くなったのはその説明が腑に落ちないからなのに)
法に則って運営されたと言われるが、その証拠となる資料は既に破棄されている
世間常識と大きく乖離している金額だが問題はない(何故問題はない?)
開催することが法的に決まっていたとしても、いつまでに、、との記述がないので開催しなくても構わない

上記は大きな場所に登場し、何かと話題にされる人たち
ところが同じような立場の人たちでも、スケールが小さくなると報道はされず市民に実態がわからないのがこういう人たち

「全員協議会は決める場所ではないので、総意に反しても問題はない」(あれだけの時間を費やしたのは何だったのか!)
「議場で謝罪や説明をしたことは、それで市民に謝罪・説明したことになる」(議場にいない人は知らないぞ!)
「手続き上進めるべき方法に則っているので、選出に問題はない」(辞職勧告をうけた人物は役職につけないはずだぞ!)

内々の理屈や用語が世間の常識や倫理観と異なっても平気でいられる神経の持ち主は
聖書を尻に敷いて右手に計算機を持つ人たちだとか、、
さてその人たちとは、、、

 

 

コメント
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