パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

そうかもしれない(石川五右衛門の辞世の句)

2020年09月17日 09時02分02秒 | あれこれ考えること

少しばかり悲観的かもしれないが、きっとそうだろうな、、と思われるのが
石川五エ門の辞世の句
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」

どんなに法律を作っても、どんにな警備を強化しても、そして(多分)教育しても
出てくるのは犯罪者とかルールを違反するひとたち
まるで雨後の竹の子みたいに絶えることなく現れる
それは人間の内の何%は、ルールに違反するように遺伝子にプログラムされているかのよう

進化が合目的に変化するのではなく、あらゆる可能性を求めて突然変異を起こして
生き延びる可能性を確保している、そのうちの丁度条件にあったものが生き延びている
このような進化論の考え方(自分が思ってるだけ?)からすれば
普通の生き方をする人間からはみ出たのは一種の突然変異で
自己の利益のみを考える一種生命力に満ちた存在は
人が生き延びる可能性を確保するための存在のように思えないこともない

とはいっても、流石にこのような存在は「人間社会」には適さない
人間社会はある種の漠然とした合意のもとに成り立っている
人を殺してはいけない、、とか盗んではいけない、、とか
それらは何故?という問を発することすらためらわれるほど、当たり前のようになっている
(何故?と問う人がいるから十戒が存在する?)
その当たり前のことを、当たり前と感じて、心地よく思うだけでは
例外の人の行動を社会的にコントロールできない
そこで、実力行使を伴う法律といった人工的なものを作り上げる

この法的なものは人工的であるがゆえに、完全ではなくてどこかに穴がある
その穴を見つけて、何%かの人は「合法的に(倫理的な)違反をする」

最近見られるのは、このような「違法ではないが正義(倫理的)ではない」
を実践する政治屋さんのたくましさで、それは国や地方自治体に限ったことではない
本来ならば明文化されていなくても、しないことが当たり前とか、紳士協定であったものが
書かれていないから、問題はない、、とする考え方が幅を効かせている

昔、ある店が周年記念セールで「コーラ飲み放題」とチラシに謳った
店に現れたのは若い男性の集団で、彼らは無料でもらえることになっているたこ焼き、
コーラを際限なく口に入れてしまった
そして何も買わずに店を去った

この行動に違和感を感じる人は多いと思われる
確かに彼らの行動は、悪いことはしていない、、
でも暗黙の了解の域を超えている
人が人として、このようなことはしないだろう、、と考える範囲を、、
書かれていないから、、といって、良心の痛みも感じずに済ませられる人たち

以前と比べて、このタイプの人が増えていないだろうか(政治屋さんに多い)
もし増えているとしたら、それはどういう理由で増えているのか
そんなことが気になる
田舎の小市民があれこれ愚痴っても片付く問題ではないけれど、、


コメント
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