何年か前、ボケ防止のために一日一句にトライしたことがある
一日に一句くらいは簡単に出来る、、と予想してのことだ
確かに最初は簡単だった
ところが、時間を経るにつれてネタが無くなってきて
これが大変な努力を要するものになってきた
確かにものの見方が繊細になったり、季節の移ろいに敏感になった
しかし、自己完結するこの試みはワンパターンの連続のように見えて
その年の12月31日でやめてしまった
このブログもボケ防止と何らかの記録のためにつけているが
リタイアした身の社会と接する機会の減少によってネタもないし
自己に沈潜することはあってもワンパターンで
継続は難しいことを実感している
ということで、ネタが切れたので昔話を
サッカーのコーチをしていたときのこと
(あまり怒らない自分は低学年担当が多くなった)
練習の終わりは子どもたちの大好きなゲームで締めくくる
そのチーム分けは試合が一方的にならないように
同じくらいの力の子同士をじゃんけんさせた
だがこれが評判が悪い
「あの子と一緒のチームになったことがない!」
運動神経の良い二人の片方が文句をいう
「誰々と同じチームになりたい」
みんな図抜けた子どものいるチームの方になりたがった
彼らは試合に勝ちたかった
負けるのが嫌だった
自分が試合にどのように関与しようが(ボールに触らずに試合が終わっても)
勝つ立場でいたかった
子どもたちにとっては勝つということがとても大事なことと思えていたようだ
ところがそのうちに、特に運動神経の良い子たちの中には
簡単に勝ってしまうより競り合って勝つほうが面白いと
感じるようになってきたようだ
5対0よりはギリギリの1対0の方が緊張感があって
夢中になれる、、と思うようになった
つまりは勝ちたいのはいつも同じだが
簡単に勝つより必死にならないと勝てないほうが
やりがいがあると思うようになってきた
それは一種の成長の証のように思われる
子どものサッカーは団子状態になる
とにかくボールを蹴りたくて味方の進路を邪魔することになるのはいつものことだ
身長の低い彼らの視野は目前のボールしか見えない
そしてそれは大人が想像する以上に夢中になれる対象だ
その夢中になる事は興奮状態を作り出す
その興奮状態が子どもにはサッカーの面白さに通じていると思う
試合に入る前、いつも言い続けたのは
「今日はみんな10回以上ボールに触るようにしよう
ちゃんと数えておくんだよ」
参加しなくても勝ってしまうのではなくて
とにかく参加する、夢中になる、そのことを求めた
試合後「今日〇〇回だったよ」
赤い顔をした子どもがうっすら汗をかいて話しかける
その顔には満足感にあふれていた様に思えたのは錯覚ではないと思う
それにしても、何かを継続するってのは難しい