パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

新城市新市庁舎について〈昨日の続き)

2015年03月07日 08時06分19秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

あれから寝ながら考えた
というより布団に入って思いついた

新市庁舎建設に再考を求める団体も
必要とする総面積は同じと考えているのか
が自分には分かっていなかったということ

再考を求める方の案は、
現在の東庁舎はまだ使えるので
それを残して(まだ使って)不足分となる 部分を
新規に建てればいいというもの

つまり、東庁舎の面積分は削ることができて
建設費の負担は少なくなり、これが現時点での
市の財政状態から見れば妥当と言う考え

この東庁舎については、まだ使える、使えないなど
様々な意見があって本当はどうなんだろう 

この部分の客観的な判断材料はどのように与えられていたのだろう

新市庁舎を全部ひっくるめて新しくする
そのためにはカクカク・シカジカの費用が必要
いやいや、市の財政は厳しくて今使えるものは
使って〈少し古くても)少しでも負担を少なくすべき

なるほど、この争点では議会の予算の承認等が
大事な案件となる
議会はこの具体的な方法論について技術的な
討論がなされたのか

ところで、昨日の職員とそれに換算率を乗じた換算職員数 を
話題にあげたが、換算職員数と職員数の割合
換算職員数/職員数の数字は他の市と比べてどうなのか
ちょっと調べてみた

いずれも総務省の方の案で
府中市は1.69
下野市2.22
近江八幡1.83

そして新城市は職員数287に対して
換算職員数は746.6だから
746.6÷287で2.6

つまり、新城市は実際の人数よりも換算した職員数が
他と比べて大きい
これは言い換えれば、一般職員ではなくて
偉い(上級)の職員が他市と比べて多いことになる 

この一般職員とそれより上の人達の比率というのは
だいたい決まっているのだろうか
上級になれば給与も上がるだろうから
なるべく上級を増やす ということも考えられそうだが
何か具体的な昇進についての決まり、絶対数の縛り等はあるのだろうか

いやそもそも、市の職員数の数は適切か
と言う問題にもつながる
市民1000人あたりの職員数をいう値があるが
新城市は周辺の地区よりだいぶ大きいらしい
〈一度計算するか、調べなければならない)
つまり効率的に仕事がなされていないということ

現実的に仕方ないコストの掛かる面もあるので
これは杓子定規ではなく、きっちりと考えてもらいたい

 

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新城新市庁舎の面積

2015年03月06日 18時17分28秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城新市庁舎の再考を求める住民投票への署名活動は
活動期間が5日間の短さにも関わらず9200筆が集まり
平穏なこの地区もどこかざわついてきた

この問題、よく考えるとそもそも市庁舎のあるべき面積が
分からない
ただ、印象とか感情で現行案の9000平米が多すぎるとか
建設費が高すぎるとか言っているようなので
今日市役所に行って聞いてみた

少し前に市庁舎の面積を求めるのに基準があるのを
ネットで知ったが、今日もその説明がなされた
簡単に言ってしまえば
(1)総務省基準によるもの
(2)国土交通省基準によるもの
(3)他市庁舎例 もしくは現市庁舎をベースに考慮

このうち(1)(2)は職員の数に個々の専有面積を乗ずるというもの
ただし、単純に職員数×個々の専有面積ではなくて
この職員の確保する面積は上の立場になれば一般職員より多くの
面積を確保する係数が考慮される
(つまり上級職員は一人で数人分の人数換算となる)
新城市の職員数は287人(288人)で、

総務省、国土交通省の基準によれば以下の図から
市庁舎に滞在する職員ののべ人数は746人(総務省)678人(国土交通省)

延べ人数出れば一人頭の専有面積欠ける人数分の計算ができる
どうやら一人頭の専有面積は4.5平米という事らしい
その計算が以下の表 
この表には事務処理スペースの他に他の必要となる面積も計算されている

つまり、総務省でも国土交通省によるものでもかなりの面積が妥当となる
しかし、ここで総務省や国交省の基準が妥当なものかどうかを
今度は現実に作業をしている職員の人に聞いてみた
現在の幾つかに分かれている新城の市役所の総面積は8000平米くらいらしいが
その面積で実際の活動に狭いか充分か広いか?と
すると、狭いとは言わなくても広いとは言わなかった
ただ、書類の整理の仕方空間の使い方を工夫すれば広さはもう少し活用できそうな気がした

これに新たに市民のためのスペースを追加したいが、あまり大きくなってしまうので
現実にはとりあえず面積を確保しておいて、その後で間取りなどを具体的に検討しよう
という事だったらしい
確かに、抽象的な面積の話よりは具体的なイメージの下の広さの検討の方が
現実的だ
そして市の方も膨大な予算となるのを避けるべくあれこれ考えているようだ

さて今度は予算について
50億ほどの予算、これが高いのか安いのか、これを判断できる人がいない
そこで今回は中間にコンサルタント的な人物が入る事になって
ゼネコンとの折衝も行う段取りらしい
(彼は既に幾つかの実績があるとのこと)

ここまで聞くと市はそれなりに一生懸命やっている

疑問をもう一つぶつけてみた
合併特例債は該当事業の7割で、建物以外の周辺道路等の工事には
適用されないから現実には50億の7割の35億ではなくて
21億くらいに収まらないか
そしてその不足分は借金をしなくてはならないので市の負担が増えないか
また国の特例債の支払いは交付金として入るのが何年を頭に入れているか

答え
市は建物工事に該当しないと思われそうな工事代金分の15億ほどは
既に積み立てて保有している
だから不足分はこれでいく分かはまかなえる
国は20年にわたって交付金として市に入金がある
このため、不足分10億ちょっとに対しての市の年々の支払いは5000万
これが現時点での計画だそうだ

しかし、先の総務省、国土交通省の延べ人数の計算の出し方は
人口5万人以上の自治体を前提としている
小さな自治体は県がその仕事の一部を補完しており
それなりの自治体になって初めていろんな仕事を割り振って依頼している
仕事の量が増えるから換算率の補正を行うということなしい(これは?かも)

随分スッキリしたのは事実だが
残念なのはこれだけの大きな金額の事、出費について
何故もっと注目されなかったんもだろうかという点
議会は?
と聞くと、議会は予算の枠の決定
具体的な内容については委員会等での話となる

その委員会の意見は何かに反映されたか?
その都度その都度お伺いしています

そもそものこの計画の、面積の根拠等の説明は何時
それも充分になされたのか
2013年の17回にわたって保育園の地区割りで説明会を行った

出席率は?
多いところもあれば、少ないところも
意見としては700通位あった
(一人で幾つもの質問をされた方がいるので述べ人数しか分からないが〉

ここまで来て、正直なところ何が正しくて何が正しくないか
分からない
支払いへの不安も、多いことは多いが、最初に感じていものとは違う

今回は自分も正直なところ反省しなきゃならない
この大きな予算の問題に対して最初無関心だったこと
最初の時点で関わらなかったこと

これは素直に反省すべき

しかし、市は発表したから役目を終えた
と言う判断をしていないか
つまり月一回の広報で、ホームページで発表したから
見ないほうが、、、、

とは言うもののなかなか広報を読み込む人も少ないのが現実
となれば我々の代表である市会議員にちゃんと
やってもらわなくてはならないが、ここの部分も甘かった
市会議員は自分らの代表として、市民の気持ちを組んで活動
していると思っていたが、国会議員と同じく職業になってしまい
市議会議員になったらいきなり選挙の時の公約を忘れてしまうような
姿が見られる

本当に今回は反省した
市議会議員も次はしっかり選ぶことにしよう

ところで新市庁舎問題
計画の妥当性は分からないでもないが、
再考を求める意見も正直分からないでもない
9000筆もの数が集まった事実は
それが感情的であったとしても馬鹿にはできないはずだが、、


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やるな!大塚家具

2015年03月05日 20時00分34秒 | Weblog

今日の中日新聞に全15段で大塚家具の広告が掲載されていた

このタイミングで出すとは、、、
これが前々からの計画通りなのか、それとも急遽決めた事なのか
これが後者で現社長である娘さん(久美子さん)の方の指示だとしたら
メディアでお家騒動と注目を浴びている事を逆手に取っての戦略

普段なら見過ごしてしまう人も
今日はあの大塚家具の広告か!
と関心を持った人もいるだろう

これはセンス(経営・時期を見る)があると言っていいかもしれない

創業者である父の会員制をベースにした高価格帯のまとめ買いによる販売
娘さんの実感に伴う市場の認識を基にした入りやすい店舗販売への転換
そのどちらが正しいかは、、、分からない
それを出すのは後々の結果でしかない

だが、この新聞広告のタイミングを見計らって実行したとすると
娘さんは案外臨機応変な手を打てるタイプなのかもしれない

株式市場は娘さんの経営計画のプレゼンの後一気に値を上げたという

そのプレゼンはこちら

親子によるお家騒動
確か伊勢の赤福餅にもあった
創業者とか中興の祖みたいな人は自分に自信があるから
なかなか気分として自分を否定する後継者を認めにくい
多分、こんな事は日本中に溢れている事だろう

それにしても、ちょっと気の強そうな、そして聡明そうな現社長
(ちょっと魅力的)
メディアが放っておくはずはないか

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せっかちな春の花

2015年03月04日 16時40分46秒 | 徒然なるままに

春になると我が家の庭で真っ先に咲くのがトサミズキ
でもまだもう少し先の事と思っていたが
出かける時にちょっと覗いてみたら
もう2.3咲き始めていた

植物に詳しくない(関心がなかった)自分は葉よりも先に
花が目一杯に咲くのがなんか不思議に思っていたが
毎年決まってこの時期に目を楽しませてくれる健気な姿には
年々愛おしさが増していくような気がする

花はトサミズキだけではなかった
ウグイスカグラのピンクの小さな花も頑張っていた

その他ヒュウガミズキも枝いっぱいに準備をしている
今まで冬木立で寂しいばっかりの姿だったが
良く見ると春は間違いなく近づいてきている

冬木立でも冬芽でちゃんと準備していた植物たち
寒かっただろうに!
でもこれからは君たちの世界だ
しばらく我々を楽しませてくれたまえ

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これだけ後から後から出てくると(政治とカネ)

2015年03月03日 19時54分27秒 | あれこれ考えること

国の補助金を受けていた企業による違法性が疑われる政治献金のニュースが
後を絶たない
甘利さん、林さん、安倍さん、そして岡田さん

これだけ続々と出てくると、正直この法律は
ザル法というか、全然実効性のないものと思わざるをえない
企業側に文章で通達するとか、受け取る側もしっかり調査するとか
そんな対応ではこれから良くなるとはとても思えない
いっそ政治献金を禁止したほうがすっきりする
(もっともそれならそれでまた悪いことを考えだす人も出てくるだろうが) 

本当に贈る方も贈る方だが受け取る方も受け取る方だ
お互い何のメリットもなければしないだろうか
(モラルなんてものは彼らの世界では死語なのだろうか) 

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印象に残る言葉〈ピケティとハンナ・アーレント)

2015年03月03日 19時07分05秒 | 徒然なるままに

まじめに取り組んでいる読書から
今日は気になって書き留めたフレーズの紹介

まずはピケティから

経済学という分野は、まだ数学だの純粋理性的でしばしばイデオロギー偏向を伴った
憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服出来ておらず、
その為に歴史研究家や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。
経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、
どうでもいい数学問題にばかり没頭している。
この数学的への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、
それをいいコトに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。
実を言えば経済学者なんて、どんなことにもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。
いずれにしてもそれこそが経済学、社会科学一般の魅力なのだ。

これは本の割合最初の方に出てくる
この視点はピケティの知性を感じさせる

ついで同じくピケティ

「資本収益はしばしば、本当に起業的な労働(経済発展には絶対必要な力)、
全くの運(たまたま適切な時機に、有益な資産を良い価格で買う)、
そして明白な窃盗の要素を分かちがたく結びつけたものだというのが実情だ」

経済的な成功は努力、運、そして窃盗と言い切っているところがすごい

またまたピケティ

18世紀や19世紀を研究すると、物価や賃金、あるいは所得や富の推移というのが
自律的な経済の論理にしたがったもので、政治や文化の論理とは全く無関係だと思えてしまう。
でも20世紀を研究すると、こうした幻想は即座に崩れる。所得と富の格差を示すグラフや、
資本/所得比率を一瞥するだけで、政治がいたるところに影響し、
経済と政治変化が不可分に絡み合っているから双方をいっしょに研究すべきだと分かる。

すると研究者は、国家、税、負債を具体的な形で研究するしかなくなり、
経済の下部構造と政治の上部構造という単純で抽象的な概念は捨て去るしかなくなる。
たしかに、専門特化の原理は健全なものだし、
一部の学書が統計的な時系列データに依存しない研究をやるのもそれで正当化される。
社会科学のやり方は無数にあるし、データを積み上げるのは必ずしも不可欠ではないし、
ことさら想像力豊かとさえ言えない〈これは認めよう)
でも、私は、あらゆる社会学者、あらゆるジャーナリストや評論家、
労働組合や各種傾向の政治に参加する活動家たち、そして特に市民たちは、
お金やその計測、それを取り巻く事実とその歴史に、真剣な興味を抱くべきだと思うのだ。
お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする。
数字との取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことなど、
まず絶対にあり得ないのだ。

政治抜きに経済だけを論ずることはできないということ

もう一つピケティ

理屈の上では、富裕国が貧困国の資本の一部を持つのは、
収斂を後押しすることで良い影響を持ちえる。
富裕国の貯蓄と資本がだぶついて新規の住宅建設や新規の機械設備追加の理由もあまりない場合、
その国内貯蓄の一部を外国のもっと貧乏な国に投資するのは、集合的に効率が高くなる。

こうして富裕国、あるいは少なくとも手持ちの資本の余っている富裕国の住民たちは、
外国に投資することで多くの投資収益を得られるし、貧困国は生産性を上げ、
富裕国とのギャップを詰められることになる。

古典派経済理論によると、このメカニズムは、世界レベルの資本音自由なフローと、
資本限界生産性の均等化に基づくもので、富裕国と貧困国との収斂につながって、
いずれは市場の力と競争を通じた格差縮小をもたらすものだ。

でもこの楽観的な理論は、多くな欠陥を2つ抱えている。
まず、純粋に論理的な観点からして、この均衡化メカニズムは
一人あたりの所得の世界的な収斂を保証するものではない。
せいぜいが、一人あたりの算出の収斂をもたらせるだけだし、それも資本の完全な移動性と、
もっと重要な点として国同士の技能水準と人的資本が等しいという想定があって初めて成り立つ。
これは決して小さな想定ではない。

いずれにしても、一人あたりの算出の収斂があり得るからといって、
一人当たり所得が収斂するということにはならない。
富裕国が貧しい近隣国に投資すると、それをいつまでも所有し続けかねず、
その所有比率はすさまじい割合まで高まりかねないので、
富裕国の一人当たりの国民所得は貧困国のものより永続的に高いまま逗まることになり、
貧困国は外国人に、市民たちが生産するもののかなりの割合を支払い続けなければならない。

こうした状況が生じる可能性がどのくらいあるかを見極めるためには、
貧困国が富裕国に支払ねばならない資本収益率と、富裕国と貧困国の経済成長率とを比べばければならない。
だがその方向に進む前に、まずはある国の資本/所得比率の動学について、もっとしっかり理解しなければならない。

更に歴史的記録を見ると、どうも資本モビリティが富裕国と貧困国との収斂を促進する要因だったようには見えない。
最近になって先進国に近づいたアジア諸国は、どれも一つとして巨額の外国投資の恩恵は受けていない。
これは日本だろうと韓国だろうと台湾だろうと、もっと最近では中国だろうと同じだ。

基本的には、こうした国はすべて、物理資本への投資、それ以上に人的資本に必要な投資を自力でまかなったのだ。
人的資本は最近の研究によれば、長期成長の鍵となる。逆に、他国に所有された国は、
それが植民地時代だろうと今日のアフリカだろうと。あまり成功していない。
その理由として最も顕著なのは、彼らが専門特化した分野は将来の発展の見込みが
ほとんどない分野分野だったこと、そして慢性的な政治不安定にさらされていることが挙げられる。
そうした不安定の一部の理由は次のようなものかもしれない。
ある国のかなりの部分が外国人に保有されていると、
それを自国に収用しろという抑えきれない程の社会的要求が繰り返し生じるのだ。
それに対して他の政治アクターたちは、既存の財産権が無条件で保護されないと投資も開発も不可能だと反論する。
これによってその国は、革命政府と既存の財産保有者保護に専心する政府との果てしない交換に捕らわれてしまうのだ。
同じ国民コミュニティうにおいて、資本所有の格差はそれだけでも受け入れ難いし平和に維持するのも困難だ。
国際的には、植民地型の政治支配なしにはこれを維持することはほとんど不可能だ。
誤解なきよう言っておくと、世界経済への参加はそれ自体がマイナスではない。
自給自足が繁栄をもたらしたことは一度もない。
最近世界の残りに追いつきつつあるアジア諸国は、
明らかに外国の影響に対して自国を開放したことで恩恵を被っている。
でも、財やサービスの開放市場や、有利な交易条件からの恩恵の方が、
自由な資本フローからの恩恵よりもはるかに大きな利益をもたらしている。

まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、
知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、
それが同水準の技術ノウハウや技能を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。
知識の普及は天から降ってくる恩恵とは違う。
何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、
各種の経済アクターに当てに出来るような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。
だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。
簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。

これらの言葉を読むとピケティは単なる技術屋としての経済がkスハではないことが分かる
かれは長い歴史を持つ西洋哲学の継承者だ

さてピケティから離れてハンナ・アーレントの言葉

道徳的な知識の源泉が何処にあるにしても、それが神の命令であるにせよ、
人間の理性にせよ、健全な人間であれば、自らのうちで、ある〈声〉が語りかけていて、
その土地の法にもかかわらす、また仲間たちの意見にもかかわらず、
この声がその人に善と悪の区別を教えるものだと想定されているのです。
カントはかつて、そこには困難な問題があることを示唆していました。
「まったく悪党どもと暮らしていたのでは、どんな人でも得の概念を持つことはできないだろう」と。

自らの声を信じること、感情に任せるのではなく静かに沈潜した思考のうちに
沸き上がってくるもの、それを信じようとする心
こうした自分の心と社会との関連を真剣に考えぬく姿、生き方は
とても参考になる

本当はこんなふうに抜き出してはいけないのかもしれない
〈著作権的に)
でも、何故か今日はこの様に彼らの言葉を伝えるのが
正しいことのような気がする

ここまで読んでくれた人には感謝を!
そして、良いことがありますように

 

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法人税減税と補助金

2015年03月02日 16時26分56秒 | あれこれ考えること

日本の法人税は高いから、世界と戦うためには法人税を下げて
企業により積極的なお金の使い方をして、競争力をあげてもらう
とか、高すぎる法人税では企業が海外に出て行ってしまうから
下げるのが現時点では必要な政策
と法人税引き下げを目論む人は唱える

しかし円高で好決算の企業は実際に
その収益の法人税分を収めているかといえば
どうもそうではないらしい
租税特措法というとんでも膨大な条文の法律があって
例えば研究開発費などは控除されるとか
ということで実際に企業が税金で払っているのは
イタリア、フランス並みの20数%で、日本は現実には
高すぎる法人税ではないという

これは週刊ポストからの受け売りだが
それが本当かどうかも含めて、ホントに討論してもらいたいものだ

ところで研究開発費などは補助金事業の対象になりやすいが
補助金を受けた企業から一年間は寄付・献金を受けてはならない
という点で、数人の政治家が槍玉に上がっているが
この補助金というのも結構怪しい種類のもの

もちろん建前は文句の付け所がないように見える
しかし補助金事業が決まって一般に公表され締切までの
段取りに少し問題がある

まずは補助金事業をどうやって知るか?
各省のホームページに出ているからこまめにチェックを
してください、が出す側の言い分だろうか

さて、この公募期間がどうかといえば、非常に短いものがある
面倒な申請用紙をすぐさま書き上げなけれならないとか
この短さを勘ぐれば、ある企業には予めこの補助金事業の実施が
伝わっているのではないかと考えることもできる

実際のところある時聞いた話だが
補助金事業を設ける側にも、いざ公募してもエントリーが
少ないと(ないと)問題になってしまう
そこで予め公募してくれそうな補助金事業をある企業と内々に
相談していて、その企業のエントリーをまずは確保していく
段取りになっている

つまり補助金は自前の事業の経費を少なくするために
社会的に立派な事業だから少し補助をしてほしい
と言う内容
そしてその金額はあるものによっては非常に高額のものもある
高額になればなるほどその申請書は綿密な計画を基に
書かれなければならないが、その意味は分からないでもないが
現実にその申請書を書き切ることができるのは
やはり特別な技術を持った人に頼らざるをえない
この特別な技術を持った人とは、ざっくり言えば大手の企業には
確保できるが、それ以外は難しい

結局、補助金は大手の企業がまことしやかな建前を並べて
自分の企業の出費を抑えるために税金から
お金を出させるということ

この税金からなる補助金をもらった企業から
寄付・献金を受け取っているとなれば
財布の中はいっしょになっているから
税金で寄付・献金を行っていることになる
そして勘ぐれば、成功報酬として寄付をしたと思われても仕方ない

だからこそ、補助金を受けた企業から一年間は
寄付・献金を受けてはならない
というのだが、
補助金を受けたかどうかは知らなかった
と判で押したように言い逃れする

知らなかったで済ましていいのか
この手の問題は大臣の辞任で幕引きがなされてしまうが
ホントのところの癒着とかお金の真っ当な処理が
なされていたのかを問い詰める報道等はなくなっていく

本当にどうなのだろう
最初の法人税減税の現実的な分析とか
政治家と金の問題とか
騒ぐだけ騒いで、また次の話題にひっきりなしに飛びつく
メディアも国民も
ホントにこれでいいのだろうか?

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川崎市の少年殺害事件の報道

2015年03月02日 15時49分49秒 | あれこれ考えること

ワイドショーと名付けられるものから、普通の朝晩のニュースでも
川崎市の少年殺害事件の報道がされている

それを見ていて何か違和感を感じて
どこかムカムカした気分になるのを止めることができない
事件が悲惨であったり、残酷であったり、常軌を逸している
とかいうためではない

テレビは18歳の少年の異常さを際立たせようとしたり
また被害にあった少年との交流のきっかけがバスケットであり
それは被害にあった少年の大好きなものであったがために
皮肉な結果となっていると、劇的さだけを際立たせる
扱いに終始している

自分が何故こんなにムカムカするのか考えてみると
それは、何故この事件が起きるのを止めることができなかったか?
そしてどうすればこのような事件を再び起こさないようにできるか?
と言う視点がまるっきり欠けているからだ
と気がついた

何故、数日間も中学校に来ないで普通ではない状態なのに
放って置かれたのか
アザをつくってきたのに何故何も無関心でいられたのか

そう、問題は周囲の大人たちは何をしたのか
が全然問われていない
ただただ事件の異常さだけをセンセーショナルに捉えているだけ

子どもたちの起こす事件の多くは
実は大人に責任がある場合が多い

初めから異常の傾向があるにしても
それに関心を持って対処する気持ちの人が一人でもいたら
何とかなったのではないか
そんな例が多すぎる

子どもたちは壊れてしまってきている
しかし、それ以上に大人たちが壊れてきてしまっている
そしてそれに気づかないでいる

むかし若者は怒りの対象が社会の矛盾やら不正などだった
しかし今は社会に対する怒りを示す若者は少なくなった
一人が声を上げてもどうなるものでもないし
と初めから諦めていたりする面もあるが、それ以前に
怒りの対象が個人的なことに終始している
例えば既読スルーされたとか口答えしたとか、、

この現実は非常に怖い
若者を取り巻く世界がインターネットで広がったにも関わらず
実際はもっと小さな世界でしか彼らが生きていないということ
反射神経のように社会にうまく対応するだけで
想像力をもった全人格的な人間が生まれにくいようになっている現在

実はこれこそが今回の事件の背景ではないのか

大人たちは、他人の事のように思っているが
実は自分たちがこの様な事件を起こした原因となっていることに
気づいているのだろうか



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責任と判断(ハンナ・アレント)

2015年03月01日 21時47分32秒 | 
秋ではないが読書モードに入っている
先日のピケティのに続いて、少し真面目な本


たまたまとか偶然ではなく、何かに導かれるように求めた
そして読み始めると、考えされられる事が次々と出てくる
現代の日本、それは戦前のドイツの後を追っていないか?
安倍首相がヒットラーとは言わないが、知らないうちに物事が進んで、気がついたら反対できない雰囲気、環境になっていた、なんて事が無ければ良いのだが。

今痛切に思うのは、出来るだけ多くの人にハンナ・アレントの存在と考えた事を知ってもらいたいということ

判断、思考は知るところから始まる
しかし心がこのような本を求めているのは、やはり世界が危なっかしいからか?
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