パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

同じ一票で公平か、考えてしまう

2017年06月15日 08時26分05秒 | あれこれ考えること

少し思うことがある
一生懸命、政治のこと、国のこと、町のことを考えている人の一票と
無関心で、ただ知り合いに頼まれたとか、雰囲気で選ぶ人の一票が
同じ一票という重みで果たして公平なのだろうか、、、

現在はとても複雑な専門知識を要する世界になっていて、
素人が容易に判断できるような政治的案件は多くない
だから、その難しい判断をある人に代理(代表) してもらって
自分たちの判断を反映してもらおうとするのだが、、

一般人にできるのは一票でその依頼する人物を選ぶことだけ

ところが、この選択が完全にニュートラルな状態でできるかと言えば
それはほとんど出来ていない
むしろ、そこにはいろんな損得が入り混じっている
損得といっても公にできるものから、表に出来ない、なんとなく得しそうだと感じるものまであって
現実には後者の自分の生活に直結する損得が大きな力を持つ
(その人達は後援会と言われる人々) 

全体の利益を考える力(熱意)より、自分たちの利益を考える力(熱意)のほうが
生命力に満ち溢れているのは残念ながら事実だ
それは前者が想像の世界のものであることに対して、後者は現実世界のことだからだ
そしてその人達に選ばれた人たちは当然支持者の得になる様な判断をする 

新城市は今年秋に選挙が行われる
最終的には住民は間違いのない未来を選ぶ、、という少し楽観的な未来を選ぶか
それともやっぱり既得権絡みの、昨日・今日と同じ明日を保証する方を選ぶか、、

真面目にいろんな情報を持って考えているひとと、無関心のひとと
本当に同じ一票で良いのだろうか、、、
(もっとも真面目に考えた末で、一方的に片方の意見が正しいとは言えず
 意見の一致は見られないに違いないが)

選択をした責任、最近このことを痛いほど感じざるを得ない
上から目線で政治に無関心であってはいけない  とは言わない
ただ、気をつけないとひどい目に合うことになることは伝えてみたい
痛い目にあう前に想像力でもって未来を予想する、、
でもこれがとても難しい 

未来は現実の続きなのか、それともあるべき姿の進むべき道なのか

それにしても、秋の選挙を控えていろんな噂が出回っている
お金がかかっても住民投票の実施を選択した新城市の市民は
いったいどういった未来を選ぼうとするのだろうか

今朝、新聞に4選を目指す市長の後援会のチラシが入っていた
選挙が組織対組織という戦国時代の闘い方で、本当にいいのだろうか
(現実はこんなもんだ、、、と選挙大好きな人物やプロはそう言うだろうが)

いつものよくまとまらない独り言 


 

 

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二人の女性

2017年06月14日 19時33分54秒 | 徒然なるままに

最近、一部の人に圧倒的な支持を受けた逞しい二人の女性がいる
1人は参議院議員の森ゆうこ氏、もうひとりは東京新聞の望月衣塑子氏

何がそんなに話題となったかといえば
森ゆうこ氏は6月8日の参議院農水委員会でのド迫力の質問(加計学園の件)
官僚さんや政府を怒鳴って問い詰めるその姿はまるで親が子どもを叱るよう
質問時間が終了しようがしまいがお構いなし(後半部分は必見)
その様子の動画は 
 

そして望月さんは、菅官房長官ののらりくらりの記者会見を
粘り強く問い詰めた記者さんだ 
以下の動画で何回も聞こえてくる女性の声の持ち主


もっとも、あたり前のことだが立場の違う人たちからはすこぶる評判が悪い
アンケートをとったら、この二人の女性は支持が多いか
それとも不支持が多いか、、、

でも、森さんや望月さんが開き直って問い詰めてくれたので
モヤモヤした気分が少しばかりスッキリしたのは事実

男の人たちも(特に記者さん)頑張れ!
 



 

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かわいそうな人々

2017年06月13日 09時28分21秒 | あれこれ考えること

どのくらいの年収の人が幸せを感じるか?
という調査を以前何かの雑誌(ネット)で見た 
例のごとく肝心なことは覚えていないが、一つだけ覚えていることがある
それは、年収一千万円くらいの人が一番幸福感を感じていないという報告だ

このくらいの年収の人は上から下からのプレッシャーがかかるポジションで
ストレスが溜まるということらしい

このくらいの年収の人で(実はよくわからないが)あまり幸せそうでない人たちを
思い浮かべることができる 
それは文科省・財務省のお役人、それと読売新聞の普通の感覚をもった社員の方々
それと、もしかしたら真っ当な感覚を持っている自民党の方たち

彼らは自由にモノが言えない
個人の判断で自分の行動を決められない
自分の行動を決めるのは、その組織内の理屈 
それは法的なものもあれば、まるで空気のような抽象的な雰囲気

民主主義は自由と平等が基本となっているが
この人たちは今「自由」のありがたさを身にしみて感じているに違いない
自分たちが置かれている状態は明らかに異常だと感じていても
精神的なストレスを抱えながらも
今を維持していくほうが無難という選択をせざるを得ない状況は
傍目にかわいそうだ 

外から見れば、思い切って個人の判断(一般的な常識)でエイヤッ!
と行動に出ればと言いたいところだが、
各人の生活を考えるとそれが難しいのも想像がつく

でも、それを変えるのは外の力じゃない
結局は当事者である人たちが自ら乗り越えていくしかない

かわいそうな人たちが、かわいそうなままでいるのか
それとも、自らの心に湧き上がる人間性に従うのか、、、 
自分たちが自ら切り開いた未来こそが、
本当に現実的な力になるものだと思いながら、、
それがなんと難しいことか 

真面目なお役人さん、読売新聞の方々、頑張りどきだ思うのだけれど、、
(本音じゃないことを言わされる、書かされる苦痛はどんなものだろう、、) 

 

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名古屋で「ワルキューレ」

2017年06月12日 19時54分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

6月7日(水)は東京新国立劇場で「ジークフリート」
日曜日の6月11日は名古屋芸術劇場で「ワルキューレ」
順番は入れ替わっているが、長い長い「ニーベルングの指環」の音楽を堪能した

名古屋の「ワルキューレ」は演奏会形式で、歌手が突っ立って歌うだけでなく
若干の動きや照明の変化など、退屈にならないように気遣いがなされていた
しかし、長い

座りっぱなしでお尻が痛くなるかと心配したが、なんとか切り抜けられた

この演奏会形式のニーベルングの指環は昨年の「ラインの黄金」が
とても楽しかったので、楽しみにしていた
長大なプロジェクトを実行しているのは愛知祝祭管弦楽団という素人の方たち
でも昨年はそんなことは気にならずにしっかり楽しめた(チケットも安かったし)

今年は数日前にプロのオケ、及び世界的な歌手の演奏(ジークフリート)を聞いた直後だったから
その記憶が残っていて、ついつい比較するところがあって、この「ワルキューレ」は
少しばかり損な役割だったかもしれない

国立のジークフリートの歌手たちの圧倒的な声、音量・音質・ニュアンス・余裕が
日本人の体格では少し追いつかないかな、、と感じられた、、、
でも楽しめなかったということはなくて、ただそんな風に思っただけのこと
(個人的にはジークリンデの人が良かったな) 

特に印象に残ったのは第3幕
夫婦喧嘩のシーンが長く、説明も多く持て余し気味の第二幕の鬱憤が
一気に開放されたように、冒頭のあの有名な「ワルキューレの騎行」から
音楽は急に熱気を帯びてきた
そこからは一気呵成という感じ
音全体が美しいとかバランスが良かった良かったとか言うのではない
そんなことは気にならなかった
ただただ、物語の世界を楽しむことができた

だが、途中変なことを考えた
自分はこの人気の「ワルキューレ」という出し物よりも
地味な「ラインの黄金」のほうが好きかもしれない、、、と
「ラインの黄金」は劇中に聴き応えの歌があるわけではない
でもライトモチーフ(示導動機)の活用が他の作品群より徹底されていて
音楽が暗示する、あるいは説明する部分が雄弁で、、
おまけに巨人とヴォータンが言い争っている時、
急に登場するエルダのシーンの効果的で美しいこと、、 

しかし「ワルキューレ」も美しいシーンが有った
ジークリンデがジークムントの子を宿していると知らされ
たった一度だけ奏される「救済の動機(喜びの動機)」が登場した時は
その効果的な美しさに思わずぐっと来た
有名なヴォータンの愛する娘との別れの歌よりも個人的には
このたった数秒間の音楽が印象に残っている
(この動機は「神々の黄昏」でも最後の最後に登場する)

それからライトモチーフではジークフリートのそれがかっこいい
恐れを知らずに火の囲いを乗り越えて来るのは(次の物語の主役は)
「ジークフリート」と暗示させるのだが、わかっていてもゾクゾクする

この演奏会はとてもコストパフォーマンスがいい
今回の席は普段なら高くて絶対座れないような1階のとても良い席を手にした
ただ困ったことがないではなかった
それは字幕が表示されるところがかなり上の位置にあったので
舞台を見るのとストーリを文字で追うには
視点の上下移動を頻繁にしなければならなかったこと
(でも贅沢な悩みだな、きっと)

次の「ジークフリート」は来年の9月と会場のポスターにあった
ジークリンデがジークフリートを産み落として成人になったところから始まるので
この1年以上の間隔は、その時間経過を考えると待ち遠しいけど良いものかもしれない

ということで、次もいくつもり
ただし、選べれるなら席は2階席のほうがいいかもしれない

 

 

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ピンク・フロイド「おせっかい」・ビートルズ「アビー・ロード」

2017年06月12日 11時07分27秒 | 音楽

ロックの名盤と言えば、、、
まずはピンク・フロイドの「おせっかい」
そして定番のビートルズの「アビー・ロード」

自分にとっての名盤の定義は、とてつもなく大きな印象を与えたもので
この2つは大げさに言えば音楽とは何か!
とさえ考えさせられたアルバム
偶然か、この2つともレコードのB面に打ちのめされた

「おせっかい」には「エコーズ」が収録されている
キーン・キーンの神秘的な音から始まる、まるで宇宙を思わせるような
20分以上も要する組曲 は、友達から教えてもらって、終わるとすぐに
また始めから聞き始めた
その時の、夏の暑い日の、あの場所で聴いて感じた内容まで
今でも思い出すことができる

「アビー・ロード」のB面はポール・マッカートニーがライブの最後に
演奏されるメドレーが入っている
でもそれは省略版で、ここにはもっと多彩な音楽が入っている
「ビコーズ」のクラシックを思わせるようなコーラス
「You never give me your money」から「The End」まで淀みなく続く
音楽時間の圧倒的な美しさ・効果、そして歌う楽しさ
それはクラシックとかロックを超えている

実はこれら聴くのは少し怖い
聴き直してあの時の感動が薄れてしまわないかと、、

名盤というのは何度も聴けるものではないと言うことかもしれない
まるでライブのように一発勝負で、鮮烈な印象・感動の大きさを与えてくれたものが名盤で
これらは運良く波長が合って圧倒された時の印象でもう一生分聴いたという感じまでなっている

でも聴いてみると違う発見があるかもしれない

あと、CCRの「スージーQ」
ポール・マッカートニーの「RAM」も捨てがたい

 




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ヴァーグナーの勉強用の本の値段は、、、

2017年06月11日 08時54分01秒 | 徒然なるままに

今週は自分にとってヴァーグナー週間
今日は名古屋で3時から演奏会形式でワルキューレ
少し前の水曜日は新国立劇場でジークフリート

それで、YoutubeやCD、レコードだけでなく本を読んで
少しお勉強をしてみた

昔買ったこの本、ハードカバーのしっかりした装丁でページ数は550ページ以上
その値段を見て驚いた、なんと2500円(昭和47年9月20日 第3版)
今なら多分その倍くらい(?)
内容が楽劇のストーリーを追うだけでなく、細かなところまで書き込まれてまさに研究書の類

昔、ドイツで本として最も多く扱われる人物は 「ゲーテ」と「ヴァーグナー」との
噂を耳にしたことがあったが、確かにヴァーグナーの言いようのない不思議な魅力は捨てがたい

ヴァーグナーのオタクをワグネリアンというが、江川紹子さんもその1人かもしれない
昨年はバイロイト音楽祭詣でをしたようだし、名古屋での「ラインの黄金」や
新国立劇場の「ワルキューレ」の会場でも見かけた

さて今日は、見かけるかな?

ところで、ワーグナーをヴァーグナーと表記しているのは、
昔ドイツでワーグナーと発音したら全然通じなかったからで
向こうではヴァーグナーと言わないとわかってもらえない

この本、後で復習用にも読まねば、、、
(いったん経験した復習のほうが頭に入りやすい) 


 



 

 

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「ジークフリート」(新国立劇場)

2017年06月10日 09時31分36秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

長い長いヴァーグナーの畢生の大作「ニーベルングの指環」
その第3番目の演目「ジークフリート」を6月7日(水)新国立劇場見た(聴いた)

愛知県の田舎にいると指環を見ることはないと思っていたが
一昨年ちょいと足を伸ばして飯守泰次郎さんの「ラインの黄金」を見て
それが思いの外面白かったものだからこのチクルスを全部見ることに決めた

最近はオペラとかリートとか歌詞のあるのもは、老眼が進んで
文字を追いながらレコードやCDを聴くのがしんどくなっていて
ストーリーを追わずとも聴ける純音楽の方が楽でいい

と言っても折角の機会、持っているカラヤンの「ジークフリート」で
少しだけ予習した
ただあまり予習しすぎると現場での感動が薄れるかもしれないので
純音楽を聞くように歌詞は無視して音楽のみに耳をそばだてた

予習という点では もう一つ「ジークフリート」の公式HPの飯守泰次郎さんの
ピアノを使ってのライトモチーフの解説を見た(Youtubeにアップされているもの)
これがなかなか役立つ
ライトモチーフを知っているだけでストーリーの行間に流れるものが
理解できる(今流行の言葉を使うなら、ストーリーを忖度できる)

会場で始まる前、オーケストラの人たちがそれぞれ自分のパートのおさらいを
しているのが てとも気分を盛り上げる
それぞれがライトモチーフを演奏する
ファーフナーや魔の火、ノートゥング、運命、ワルハラのそれなど
バイロイトのように数分前のファンファーレはなくても
直ぐに行われるパフォーマンスに期待が高まる

このシリースは3回目となるのでだいぶ慣れてきた
歌詞が舞台の左右に表示されるが、大きな視点の移動をしなくても
さっと内容だけ理解して、舞台に集中して筋を追うことができる
最初に感じた歌手陣のパワフルな歌声も
今回はそれに圧倒されることなく、むしろストーリーをより効果的に
支えているものとして、つまり音楽の一部として聴けた

こうした楽劇とかオペラを見る時、音楽を聴いているのか
それとも筋を追っているのか、、時々わからなくなる
ライトモチーフの雄弁さを感じる時は明らかに音楽を聴いているような気もするし
興味はストーリー展開の方に支配されるようだし
結局はヴァーグナーの言うような総合芸術としての全体を感じているのかもしれない

あまりストーリーの予習をしなかったお陰で(?)舞台は面白く見ることができた
次はどうなるのか、、そんな興味がずっと続いた

特に「ジークフリート」ではダイジェストで使われる「森のささやき」のある
第二幕が大蛇の退治や叙情的なところもあり興味深かった
(この物語は メルヘンなのか神話のプロトタイプなのか)

物語は上の画像のように長い
第三幕もヴォータンの行く手を阻む試練も、自ら鍛え上げた剣で
ジークフリーは乗り越えて行く(ヴォータンのは内心喜ぶ)
そして炎に包まれ眠っているブリュンヒルデを発見
そして彼女の目を覚ます
その時に今まで知ることのなかった「怖れ」というものを知ることになる

このあたりのストーリーはパルジファルの場合にも2幕での
クンドリーとの関係で「同情を知る」という過程に似ていて
ヴァーグナーの定番のようなものかもしれない

そこまでは良かった
しかしそこからが長かった
ブリュンヒルデが目覚めてからジークフリートと運命をともにしようと
決心するまでが、話が行ったり来たり、、なかなか前に進まない
(まるで女性が焦らしているような、、、、)
少しこの部分長すぎるよな、、ヴァーグナーの脚本家としての限界って
こんなところにあるのだろうか、、、と思ったりした

結局、やはり筋を追っていたのかもしれない
指環は「筋を追う」物語なのかもしれない
だからこそ多様な読み替えの演出が後から後から生まれてくるのだろう

でも音楽がなかったら、ライトモチーフの複雑な感情を暗示させるものがなかったら
ここまで楽しめたかはわからない

歌手陣はヴァーグナー歌いで著名な方たちらしい、最近はレコード芸術等の雑誌も
読むことはなく、情報に疎い
その分偏見なしに目の前のものが良いか悪いか、好きか嫌いかが判断できる
この意味では評判通り歌手陣はすごかった、、、と思う

指環は残すところあと「神々の黄昏」だけになっている
ここまで来たのだから、今年の秋も見る(聴く)つもり
話が全部終わって、今まで奏でられたモチーフがいくつも登場し
振り返って、黄金が元のようにライン河にもどるそのシーン
つまりは大団円に向かうその音楽の効果はどんなものか、、、早く知りたい 
ヴァーグナーは天才か、人の心をつかむ怪物か、、、

 

 

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安倍首相の答弁(野次のこと・政治倫理綱領について)

2017年06月06日 08時44分23秒 | あれこれ考えること

国会の場で「野次を飛ばさないでください」「冷静に話しましょうよ」
と答弁する安倍首相が、野党の質問のときにはその本人が
質問席の近くで 野次っているのは大人げないし
これが国の最高決定機関で行われていること、それを国の代表者が行っていること自体が
少しばかり恥ずかしい
海外メディアがそれを報道したら、見た人たちは首相にどんな印象を持つだろう

ところで、安倍首相の異様な野次に対する反応ぶりに対して
昨日、テレビのあるバラエティ番組でお笑い芸人が(安倍首相の発言に関して)興味深い発言をした
「ああやって、野次に反応して話をそらしていこうとする時は
 自分の返答がうまい行かないと感じて、野次の話をしながら次の手を考えているに違いない
 自分たちも営業のとき、受けないと感じたときなんか無理やり観客に振って時間稼ぎをすることがある」
「そういうの、あるある」

なるほど、野次に対する反応は単なる感情の発露だけではないということか
現役のパフォーマーの経験に基づく話は、別の見方のヒントにもなった
野党は野次らずにじっと聞いていたほうが安倍さんは困るかもしれない、、
との発言もあったが、現実的にはあのような話を拡散、そらし、質問に答えない話しぶりには
ついつい野次が出てしまうのも、、仕方ないかもしれない

安倍首相の発言でよく出てくるのが「印象操作」
意識のなかに巣食っている概念なのだろう
一つは被害者意識として、もう一つは積極的に活用した人格攻撃によるイメージ操作として!
どのように言おうと、「印象操作をしているのはどちらか?」
と判断するのは、これらの報道、ニュースを見聞きしている国民
世論調査ではほぼ結果が出ているが、、認めようとしない人々

話は飛んで、昨日の参議院決算委員会での又市さんの質問に
「政治倫理綱領と言うものがある、そのなかに、われわれは(国会議員は)、政治倫理に反する事実があるとの疑惑をもたれた場合にはみずから真摯な態度をもって疑惑を解明し、その責任を明らかにするよう努めなければならない。という一文がある。それができていないのではないか」というものがあった

これを聞いた瞬間、何処かで聞いたような文章だなとの記憶が蘇った
それで調べてみると、新城市の市議会議員政治倫理条例の議員の義務というところの三番目に、
●議員は、次条に規定する政治倫理基準に違反する事実があるとの疑惑を招かれ、
政治的又は道義的な批判を受けたときは、自ら誠実な態度を持って当該疑惑を解明 するよう努めなければならない。
とあるが、まさにこのことで、新城市の議会議員政治倫理条例は政治倫理綱領がお手本となっているのが推察できた 

この新城市議会議員政治倫理条例を知ることになったきっかけの一つは、
ある議員の当選後に急激に市が発注する水道工事の受注が増えたことが
地元の新聞で取り上げられたことで、モヤモヤとした疑惑が市民に広がり
スッキリした説明を誰もが望み、結果的に政治倫理審査会を開くことにまでなった出来事だ

とても長い時間をかけて政治倫理審査会は行われ、倫理の問題らしく最終的には本人の
自覚とか行動に頼る結果が言い渡された、議員さんにも弁明の機会が与えられたが
その弁明が、今回の安倍さんと似ている
新城市議「私は法に触れることはしていません」
安倍さん「お金でもって便宜を与える等の証拠はあるのですか?(法に触れてません)」
どちらも倫理という範疇の話を法の話に置き換えている
法でコントロールできないから個人としての倫理の問題としているのに、
倫理ではなくて法の範囲内だとする、、、

こういう答弁を見聞きすると、そのように答えるのが定番の答えなのだと
言いようもなく残念な気がしてならない
政治家は(市議会議員も)専門職として知識・技術を必要とする
しかし、専門バカの前に教養ある、全人格的な判断ができる一個人としての信頼が
国民(市民)のなかにあるはずなのだが、どうもそのところは、選ばれてしまうと
すっかりお忘れになるらしい

国が国だから、地方まで、、ということになりそうな危機感を国は(政権は)
持っているのだろうか 
そして何もかも隠そうとする政治で 「美しい国」を本当に作れると思っているのだろうか
(そのそも彼らの言う「美しい国」自体が胡散臭いところがあるが) 

少しばかり腹の立つ、お偉いさんの行動が続くので愚痴ってみた


 

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大相撲は江戸のイメージしかないが、、、

2017年06月05日 09時16分46秒 | 徒然なるままに

得意のどうでもいいこと

大相撲の人気が復活したようだ
稀勢の里や高安の日本人が活躍すれば理由もなく嬉しいと感じるのは
視野を広くして偏見を持たず国や出身地に限らず応援すべき
との正当な意見があるのは分かるが、どうしようもない自然の感情かもしれない

ところで、神事っぽい印象のある相撲だが、
なぜ京都と相撲との結びつきの印象が無いのだろうとの考えが浮かんだ
昔からのこと、神事的なこと、、とくれば京都もしくは奈良と連想するが
何か相撲は京都には合わないイメージがある

相撲の初めは「日本書紀」や「古事記」にも書かれていて
奈良には相撲の始まりに関係する野見宿禰の銅像がある神社があるとか

だったら、京都でなくても奈良でも相撲が盛んであってもいいと思うが
昔の都である地区ではなくて、相撲と言えば東京(江戸)のイメージがある

それで少しばかりネットで調べ物をすると、相撲は確かに儀式として
平安時代にも行われたようだ(知らなかったな)

その後の時代では、織田信長は相撲が好きで、上覧相撲を開催し勝ち残ったものを
家臣として召し抱えた
江戸時代ころになると相撲を職業とする人たちが生まれ勧進相撲が行われるようになった
との説明が、日本相撲協会公式サイトに紹介されている

雷電とか谷風など名前を聞いたことのある力士は、江戸と結びついている
結局、神事をまとっているが大相撲は「江戸」のイベントだったということのようだ
花よりダンゴではないが、神事より勝負事のほうが単純に一般受けしたのかもしれない

そうなのか、、と一人勝手に納得しているに過ぎないが
なんか、もやもやが消えたスッキリした気分

ところで京都ではなく大阪だったかもしれないが、新撰組が
大相撲の力士たちと喧嘩をした話がある
今で言う巡業の際だったのか、それとも定期的に行われる相撲の力士との
諍いだったのだろうか

ホント、どうでもいい話


 




 

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計算違い(人格否定戦術は失敗だった)

2017年06月03日 08時15分44秒 | 徒然なるままに

人は知らず知らず同じような行動をする
それは成功体験に基づくものか、
それとも自由な発想と言いながら実はごく狭い凝り固まった
思考方法に束縛されているせいなのかもしれない

2つの安倍さん周辺の仕掛けは、どうやら上手くいかなかった
まず第一は森友学園の籠池さんの証人喚問
籠池さんは詐欺もいとわない、いい加減なちゃらんぽらんな人で、
その人の証言などは信じられないとする人格否定の戦術だ

ところがどっこい、思いの外、彼はしぶとかった
中小企業の経営者にありがちな押しの強い、どこか勘のいい、
そして要点を自分勝手ながらきっちりつかむ能力、
粘り強い性格は、多分、想定外だった

だから、すんなり片付くと思われた問題も、新たな情報が出てきて
却って火に油を注ぐことになった

2番めのワンパターンの人格攻撃は、文科省のトップという立場でありながら 
「出会い系バー」に出没して怪しい行動を起こしたのではないか
と匂わせることを読売新聞に書かせたことで
菅さんもなんとなく、それを暗示させたが、
どっこいここでも予想とは外れた事になりつつある

仕返しのためにリークしたとされる前文部科学省事務次官の前川さんの評判(性格)が
期待したような弱い人間ぽい一面だけではなかったということ
出会い系バーについての前川氏の言い訳、貧困等の調査に行っていた、、という話が
あながち嘘ばかりではなさそう、、という報道が週刊誌にされたばかりではなく
退官後の彼のボランティアにかける行動や、退官の際にみんなに送ったとされるメールの
内容の素晴らしさは、、彼の人格(ひとには色んな面があるが)は信ずるに値する
ということになりそうなことだ

多分、2つの安易な手段を試みた人物は、その人の周辺には
この方法で充分処理できるような人ばかりが集まっていたに違いない
(人間なんてこんなものだ、、という判断がそこからなされる)

しかし、世の中はいろんな人がいる
みんながみんな権力とか力にひれ伏してしまうだけでなく
多少勘違いはあるにしても、自分のプライドを汚されることは許せない
という人がいるのだ
また単純に、正しいことを求める人もいるのだ、、

あの人たちの周辺には、きっとそんなそんな人物がいなかったのだろう
いや、いたかもしれないが、いることを想像することができなかったのかもしれない
想像力の劣化、、、
政治上の想像力は必要、しかしそれは一種の専門的な能力
人に対する洞察力とか想像力は全人格的なもので、最後の判断を間違えないためには
この分野の基礎が必要なのではないか
いまの政権中枢にいる人たちの 人間性は、、果たして

それらはきっと表情に出てくる
とすると、子どもたちに見せたら一目瞭然で誰が悪い人か
わかったしまうかもしれないぞ ご注意を!



 

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