パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今更ながら「天皇機関説」に関する本を読んでみた

2017年06月02日 19時09分36秒 | 

昨日、図書館に本を返しに行って、ついでに二冊借りてきた

一冊は、思わぬことから裁判というものを経験することになって
「裁判」の文字につられて手が伸びた
そしてもう一冊は、聞いたことはあるがよくわからない「天皇機関説」に関連する本
(先日読んだ奔馬にもこのことがちょっと載っていたような、、、) 

まずは赤い方の本「天皇機関説」事件のほうから読み始めた
読み始めたらこれがとてつもなく面白い
じっくり読むべき種類の本かも知れないが、先へ先へと気が急かされて
さきほど、とりあえず最後のページまでいった

この本が発行されたのは2017年(今年)4月19日 で、ほとんど直近のことだが
その必然性とかこの時期発行された理由がわかる気がした(今こそ読むべき書籍)
実際、恐ろしいほど現在との類似点を感じる
途中で、いつのことか?今のことではないのか?とも感じたほどだ

歴史の教科書では「天皇機関説」という言葉は聞く
しかし、自分はその内容はほとんど知らない
ただ批判されたという事実だけは頭に残っている
しかし、こうして読んでみると「天皇機関説」は現代では当たり前にちかい
というか、現実的で諸外国にも抵抗感の無いだろう普通の考え方に思える
そして、批判されて公に無いものとされるまでは、この考え方(天皇機関説)は
すでにある程度浸透しており、そういう考え方もあるのだろうと政治家の間でも認められていた
そして昭和天皇自身もこの考え方を否定するものではなかったという事実に驚く 

ところが、日本の歴史は理性の道を選ばなかった
視野の狭い、自分勝手な、感情的な、根拠のない、そして一部の人間のメンツにこだわった
勢いに流されてしまった
実はこの部分が現在の日本に近いのではないか、、と思う点だ
ネット上でよく見られるネトウヨ、感情的に相手の非を大声で叫ぶすがた
国家の歴史をよく学んでいないにもかかわらず、自分の国だけが特別にすばらしいものとして
他を認めようとしない、、そういう姿が、戦前狂ったように起き上がったこととリンクする

歴史から学ぶ、それが人の知恵というものだろうが
今のこの国はその知恵を自ら放棄しているようにさえ思える
したくもない痛い思いをして、次はそんな経験をしなくてもいいように
とした人々の共通の思いや知恵は、またもや同じような経過を辿って
ないがしろにされそうな雰囲気が漂う

すっと続く不安感は、、、消えることがない
でも気づいた人間が何かしなくてはいけないんだろうな、、
 


 

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面従腹背(めんじゅうふくはい)

2017年06月01日 08時46分56秒 | あれこれ考えること

音だけを聞くと、どんな漢字を当てたら良いのか
言葉を知らない人には難しい「面従腹背」

ネットで調べると
●うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと
あるいは
●表面だけは服従するように見せかけて、内心では反対すること
とある 

これはたまたまyoutubeで見た(聞いた)ラジオ番組で
今話題の人物、前文科省事務次官の前川喜平氏が使った言葉で
大臣から(政治家から)命令されたらどのような行動をとるか
という質問に答えたものだ

全体的にはさすがにそつのない言葉で
政治家は(選挙という形で)国民の信託を受けている
その国民の声を代表する方々の声を無視することは出来ない
しかし、実務的な知識等、そしてその政治家さんの命令がその後
どのような影響をあたえるかは、現場にいる自分たちのほうが正しい
と思われる時がある
全体の奉仕者としての判断として、その旨を申し上げることがある

しかし、それでも、強硬に命令されたら、、、
「面従腹背ですな、、」

ここで、最近の国会での官僚さんたちの答弁を思い出す
森友学園の財務省や航空局の官僚さんや
今回の加計学園の文部科学省や農水省の官僚さんの答弁
それらは、多くの国民にとってはストレスのたまる答弁で
結局は何も応えていないことと同じで、そんなことで許されるのか、良いのか
と怒りさえ覚えるものだが、考えようによっては、あの立場の人は
あのように答えるしか無いのかもしれない、、とも想像できる

国会では正直答えるはずがないことを前提に
野党側はどのように矛盾点をついていくかが、言葉の闘いとなるのだが
都合の悪い点は記憶にないとか、確認できないとか、答える立場にないとか
法的には(?)随分逃げ道がたくさんあるようだ

しかし、人間の個人としての判断基準があったとしたら
(全体の奉仕者としての自己の判断基準があったとしたら)
官僚さんたちは、どのような選択肢があるのだろう

エリートという言葉がある
政治は少数の賢者(エリート)で行われる方が効率的だとか間違いの無いもの
となるという考え方で、間接民主主義のベースとなる考え方だが 
この場合のエリートというのは、選ばれたという時点でエリートとされているのではない
そこには全人格的な判断力をもった人物ということが必要とされており
単なる専門職としての政治家を期待するものではない 
同様に、官僚さんも一般的にはエリートと呼ばれる人たちの集合で
だからこそ、深い専門知識だけでなく人としての判断力を求めたい

宮台真司氏は「感情の劣化」という言葉を使った
それがどんな意味だったのかは今は忘れてしまって、間違った解釈をしているかもしれないが
この「感情の劣化」という言葉だけは記憶に残った
エリートと言われる人々の「感情の劣化」
その感情とは喜怒哀楽ではなくて、現に生きていて、味わなくていい経験をせざるを得ない人たちに
対する同情とか共感の意味だと解釈すれば、それはある意味想像力の欠如とも言える

面従腹背をせざるを得ない状況にある人達
(ストレスが溜まりかわいそうな人達  でもどの世界でもそんな人達ばかりかもしれないが)
その人達ができることは具体的には何か?
答えはきっと自分で考え決めるしか無い 

ただ、真にエリートと言われるためには、自己判断能力の向上に努めてもらいたいものだ
大衆の反逆の著者オルテガは
 エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」
「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。
としている、

日本人は多分こんな面倒な言葉遊びのような概念を弄ぶことが好きでなくて
もっと現実的な直接的な解決法のみを好む傾向があるが、その方法の限界が
今に来て「劣化」という言葉に代表される状況になっていそうだ

いつものことながら、よくまとまらない話
でも、なにかイライラだけは募る
いまの政権のやり方、やっぱりどう考えても変でしょう
「真っ当な官僚頑張れ」(頭の良さをあんな答弁に使うのはもったいない)




 

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