パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

虫の声

2020年08月09日 08時12分49秒 | 徒然なるままに

睡眠はレム睡眠とノンレム睡眠が交互に入れ替わって行われるらしい
よく使われるレム睡眠だが、これが英語を見たほうがなんとなくわかりやすい
rapid eye movemen(急速眼球運動)の最初の文字をとってレム睡眠と名付けている
体は休んでいても脳は休んでいない状態のことらしい

年齢を重ねると眠りが浅くなると言われる
確かに若いときのように爆睡ができた記憶は、最近はまったくない
昨日(今朝?)夜中に目が覚めた
夏の時期はエアコンがない二階ではなく、涼しい風が入る下で寝ている
あれっ、ここはどこだ?
ぼんやりしながらいつもと違うことを感じる
そうか、下か、、、
その時、庭から虫の声が聞こえた
秋の虫だ、、
なんの声か知らない
でも、間違いなく秋に聞こえる虫の声だ
暦の上では立秋を過ぎて秋になっている
まさかそれに合わせたのではないだろうが、
慌てん坊の我が家の偉い人そっくりの行動をしている
空耳だったかな、、とぼんやりした頭でいると
再び虫の声が聞こえた
今度は、主張するように、、、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

不意に昔覚えた歌が浮かんだ
暑い日が続いて夏本番真っ盛りではあるが
こうして虫の声を聞くと、、
夏ももうひと踏ん張り、、と思えてくる

ところで、今日の眠りにつく時刻に虫は鳴くのだろうか、、

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1976年の8月7日

2020年08月07日 08時19分20秒 | 徒然なるままに

昨日(8月7日)フルトヴェングラーのことを、ここで取り上げたが
今朝、何の気なしに昔のメモをパラパラしてたら、少しばかり驚いた

生きていれば毎年やってくる8月7日
昔のこの日は何をしてたかな、、とメモを見ていたのだが
1976年の8月7日、自分はドイツハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りに行っていた

メモには橋から眺めるハイデルベルク城はあまり感動しなかったと書いてある
それとは反対に興奮気味に書かれているのは、フルトヴェングラーのお墓での出来事で
彼のお墓の前でベートーヴェンの第五番の交響曲が、奏者が必死になって演奏している様が
突然聴こえてきたと書かれている
それは今でも覚えているが、生演奏で感じるような一期一会に近いようなリアルな体験だった

「幻聴」
年齢を重ねた今なら、そのように自分を納得させる気持ちが働くが
いつまでもその音を覚えているのだから、単なる幻聴ではない、、、
と思いたくなるのは当然のこと

これを確かめるために、37年後に再びハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓を
訪問することになった
お墓の前であの音(音楽)は聴こえるか、、、を確かめるために

人は時間を、その歩みのスピードに沿って味わい、そこで何かを得て、何かを失っていく
例外に漏れず自分もそれを実感することになった
音(音楽)は聴こえなかった
でも、そのかわりその場所でそれとは違った経験をした
彼のお墓の周りで聞こえるのは鳥の声、それも幾種類もの
そしてそれらは彼(フルトヴェングラー)の前で歌い、見守っているような気さえした
その時間はとても心地よく、、時の経過を忘れるくらいぼーっとしていた

昨日の8月7日、フルトヴェングラーのことを思い浮かべたのは
その日がお墓参りをしたから、、というのではないだろうが
なんとなく気分的には必然であったような気がして、、、
こういう時は(運が)ついてる、、と思いたいような気分

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フルトヴェングラーのトリスタンとイゾルデから

2020年08月07日 08時19分20秒 | 音楽

いつもなら今頃はドイツの小都市バイロイトでは、世界中のワグネリアンが集まって
オーケストラの上に蓋がある祝祭劇場の独特な音響を味わって
聴いてきた(見てきた)ばかりの舞台の感想等を話し合っていただろう
だが今年は、新型コロナの所為で音楽祭は中止、
自分は行ける身分でも立場でもないが残念に思う

ほとんど偶然に近いが、このバイロイトで1976年二つの舞台を見聴きした
「トリスタンとイゾルデ」と「パルジファル」だ
二つともホルストシュタインの指揮で、この指揮者の演奏の別の日を聴いた
吉田秀和氏は高く評価していなかったが、自分は初めて体験する音楽に
ノックアウトを食らった

「パルジファル」は好きな音楽だったので、予めレコードでだいたいの流れは知っていて
何の抵抗もなく聴き進めて行く事ができた
「トリスタンとイゾルデ」の方は全曲は知らず、一幕の前奏曲と愛の死の部分しか知らなかった
だが、集中しているとそれ以外にも印象に残る部分があった

その一つが第二幕の「愛の二重唱」と言われる部分で、トリスタンとイゾルデが
ピロートークとまではいかないが、何やらある観念に陥った心情を吐露している部分だ
これはとてもロマンティックとか官能的な感じの音楽で
特にフルトヴェングラーの指揮するニューフィルハー管弦楽団の全曲盤のレコードは
一度知ってしまったら、ちょっとやそっとでは抜け出せない魅力に満ちている
徐々にフォルテされていく音、そのフォルテに従ってテンポは遅くなっていく
その効果のすごさ、、、それは音楽という範疇を越えているようだ

このフルトヴェングラーのレコードの真骨頂はその後に続く「ブランゲーネの警告」の部分で
二人だけの世界以外は目に入らない二人に、誰かが偵察に来ているから注意する様に、、と
訴える音楽だ
この音楽が凄い
初め聴いた時も、バイロイトで二回目聴いた時もこの部分は深く印象に残っていた
だが、フルトヴェングラーのレコードの演奏は本番の舞台以上だ
なにしろ、ヴァイオリンの伴奏(フレーズ)が、歌にまとわりつくようで
そのヴァイオリンに耳全体が集中してしまう
そして出てくるのはため息

ところが不思議なのは、このヴァイオリンのまとわりつくような音楽は
持っているレコードのカラヤン・クライバー・バーンスタイン・ベームの全曲盤では
それ程聴こえてこないのだ
あの胸が苦しくなるような切ないような音楽は、フルトヴェングラーでしか味わえない
ヴァイオリンの音が彼のだけ良く聴こえるのは、そのように聴こえる様に録音されているからなのだろうか

とにかく、この部分があるだけでフルトヴェングラーの演奏は特別なものと感じる
他にも第二幕の最後の悲劇的な和音の音色
第三幕の前奏曲の孤独、、、
これらは他の表現方法があるとは言え、知ってしまうと抜け出せない

ところで、ブランゲーネの警告は、こんな音楽

Tristan und Isolde, Act 2, Scene 2: "Einsam wachtend in der Nacht" (Brangänes Stimme)

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シャッフルされた音楽

2020年08月05日 08時05分13秒 | 徒然なるままに

梅雨明けして、これで3日連続して早朝ウォーキングにでかけた
スマホのアプリを起動して歩き始める
いつもなら、おせっかいな音楽がなりはじめても直ぐにオフにしてしまうが
今朝はどんな曲が流れるか、流れるままにしておいた

最初の曲は山口百恵の「秋桜」だった
スタートはまずまずの選曲
音楽は自然の音を味わうには邪魔だと思っていたが
案外そうでもない事に気がついた
音楽に気を取られていると、歩いていることを忘れてしまう瞬間がある
気持ちいつもより速く歩いている気もする

次の曲はポール・マッカートニーの「レット・ミー・ロール・イット」
アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」に収録され、ライブでも時々取り上げられる曲だ
ギターの印象的なリフがありジョンっぽいと言われるが
いやいやそんなことはない、、歌いやすいのはポールならではの音楽だ

段々、次は何が出てくるか、、楽しみになってきた
少し前、アイポッド・シャッフルが発売された時、シャッフルされて
いつもとは違った順番で聞こえてくる音楽がとても新鮮に聞こえた事があった
ポール・マッカートニーのライブでもセットリストは知っていないほうが
ワクワク感があった(次はどの曲をやるのだろう、、と)

次は意外な曲だった
倍賞千恵子の歌う唱歌「ペチカ」
この人の声好きだな、、と思いながら歩いていると
向こうからやってきた人が右折して用水沿いの道に入った
自分は左折してその人の後を追うようになった
歩くスピードはほとんど一緒、、音楽が邪魔かな、、、
と思い音楽は一旦停止した

途中でその人とコースが変わったので再び音楽をオンに
「ペチカ」は続いている

今度はヴァイオリンの独奏が静かに流れる
知ってる曲だ、、これは、、、
バッハのロ短調ミサの「ベネディクトゥス」だ
マタイ受難曲のアルトの「憐れみ給え」を彷彿されるヴァイオリンの独奏
これはカール・リヒターの指揮するものだ
だが、所有している別のCDのクレンペラーの指揮するこの曲は
ヴァイオリンではなくて楽器がフルートになっている
フルートの演奏は息継ぎが認識されるが、ヴァイオリンの演奏は呼吸はあまり気にならない
真面目に聴けばやはり呼吸は何か感じるだろうけれど

「ベネディクトゥス」はベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」でも
印象的なヴァイオリンの独奏がある
どうやら西欧の音楽家にとっては共通のイメージを換気させるものらしい
ベートーヴェンは「ベネディクトゥス」もいいが
一番好きなのは「アニュス・デイ」で、これを聴くたびに涙が出そうになる

シャッフルはどのような基準なのだろうか、、そんなことを思っていると
勢いのある音楽が流れてきた
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲だ
これはついつい歩くスピードが速くなる

そろそろウォーキングも終盤、あと少しで家に着くというところで
流れてきたのはビリー・バンバンの「また君に恋してる」
偶然とはいえなかなかいい選曲だ
過ぎ去った時間を今振り返って、それを良しとしている歌詞は
近くをウォーキングしてそれぞれに感じる何かが
意識の流れにリンクしているようで、、、

これらの音楽は自分で選んでスマホに入れているものだが
我ながらいい曲を収録しているものだ、、、と自画自賛したい気分になった

でも今度は、やはり音楽無しで歩こう
歩きながら自分の世界に沈潜するのは(この時間が好き)
自然の音だけのほうが良さそうだから

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「帰れない山」

2020年08月03日 16時01分52秒 | 

そこには行ったことがなかった
でも、まるで目の前の風景のように
あるいは昔(子供の頃)見た出来事のようにイメージは浮かんできた
「帰れない山」パオロ・コニェッティを読んでいる時のこと


そしてその豊かな時間から離れるのと
その時間が終えてしまうのが勿体なくて
いつまでもこの時間が続いてほしいと思ったものだ

そんな気分になったのは北杜夫の「幽霊」以来かもしれない

文章の喚起力というのはいったいどういうものだろう、、と考えてしまう
細かな描写力とは少し違う気がする
事細かく書かれていなくても、一気にその世界を連想する文章ってあるものだ
それが翻訳作業を介しているものだから、話はややこしくなる

舞台はイタリアの山岳地帯
父と子、同世代の男の付き合いと感じ方の変化が
山を介して臨場感たっぷりに表現される

行ったことはない、でも、それに近い風景は見たことがある
昔、疾風怒濤の時代にでかけたスイスのグリンデルワルトでの風景がそれだ
牧草が生えて牛がのどかにカウベルを鳴らし歩く(フィルストの光景?)
もっと高いところに行くと氷河が見える(ユングフラウヨッホ)
ユースホステルがあるところでは木造の家が、ベランダに花を飾りながら並んでいる
そうした風景を思い出しながら読んだ、、という方が正確かもしれない

この描写とか喚起力が素晴らしかったものだから、内容もさることながら
何故、そんなに喚起力があるのか、が奇妙に思えてしまう
と言っても、誰にでもこのように喚起力を刺激するものではないかもしれない
それは単に個人的な経験に過ぎないもかもしれない
要は相性が良いということかもしれない

物語はどこにでもある人々の、どこにでもある物語と言える
何かをなした人々ではない
普通に暮らし(たいと願う)、自分を振り返る癖を持った人の静かな物語だ
ヘッセの教養小説とも違う
ただ静かに何かを感じ、少しばかり心に痛みを覚えるような小説だ

自分は案外イタリアの作家が好きなのかもしれない
詩人のサバも好きだし、アントニオ・タブッキも一時期気になって読んだ
どこか感情のひだを刺激するような内容をもつそれらは
今の自分のメンタリティに合っているのかもしれない

最近は小説などのフィクションを読むより、
現在の問題点を扱う小難しい本を読むことが多くなっている
そこに急にこのような本が入ると、
自分の擦れた気持ちが少し修復されるような気もする

この本、いつまでも忘れない本の一つになりそう
読後評価は「優」をつけておいた

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忍耐強いのか、それとも諦めているのか

2020年08月02日 09時07分52秒 | あれこれ考えること

ジニ係数という数字がある
所得の不平等さを測る統計学的な指標で
0から1までの数字で表され、大雑把に言えば
0ならみんな平等、1ならば1人が全ての所得を得ている
と解釈される数字だ

この数字が高くなると社会が安定しなくなり
暴動が起きたりするとされ、フランス革命時代のそれは
かなり高い数字であったとされる

現在では各国のジニ係数を検索する事ができるが
確かに高い数字の国は厄介な国情を抱えていると見ることができる

気になるのは日本で、実感としては最近は格差が広がっている
と感じているので、案外高い数字なのではないか、、と想像したが
危険水域の0.4まではいっていないらしい
ただし、それは所得の再配分を加味した数字であって、単純に
所得のみを計算すると世界に誇れる数字ではなさそうだ

普通なら暴動が起こる数字の時、日本は何をした(する)か、、
と思うと、日本はあまりにも忍耐強いのではないか、、と思ってしまう
それは自分たちの権利とか自由を自らが手にした経験を
持たないからではないか、、と思ったりもする

基本的に日本人はお上の言うことに弱い(と思う)
命令されることに慣れている
自ら判断して行うことを、自ら避けているように思えてしまう
この誰かの命令(指示)に従うパターンは、気づかないかもしれないが
スポーツの世界でもちょくちょく見られる
野球でもサッカーでもバレーでも、〇〇(監督名)ジャパンといって
マスコミは大騒ぎする
戦うのは選手だが、評価されるのは、そして日本人自体が好きそうなのは
監督(トップ)の采配なり判断
そこには上からの命令には無条件に従う、、というところがある
もちろん、そうでなければチームとしてやっていけない現実はあるが
他国の事情と比べると、少し印象が異なる
外国ではサッカーの代表監督と折り合いが悪いために、自ら代表を辞退した
選手は少なくないようだ
個人間の好き嫌いで貴重な立場を捨て去れのは大人げない、、とも思えるが
無条件に上からの声を聞く気にはなれないところは、
たくましくて少し憧れるところもある

また日本のドラマ全般に言えることだが、必ずといっていいほど
神に近いような間違いのない指示(暗示)をする人が出てくる
そして苦難に陥っている人はその声を聞く
つまり、自分で何かを考えたりするのではなく、誰かに意見に従う

これは現実の世界では楽ちんなので、ついつい行ってしまう
そしてそれはいつの間にか癖のようになっていく

お上のいうことを無条件に聞く傾向は、何時のころから?
と考えると、なんとなく江戸時代を想像するが
本を読んでたら、どうもそうではなさそうな、、気もしてきた

例えば困った人たちは、自らが自らの考えで行動を起こした
(それは直訴とか裁判という形で)
つまり忍耐強いばかりではなく、問題解決の具体的な行動や
怒りの感情を表に出したということだ

そこで、つい比べてしまうのは、今の日本のこと
確かに一部の怒れる市民はいる
しかし、もっと多くの気づいているが、気づかないふりをする選択をした人の存在
それはあるときは大衆とか群衆という言葉で表現されるかもしれないが
とにかく、自分の頭で考えないとか判断しない、、人たちが多い
それは自分の判断は責任を伴うから避けたい、、と思うのと
そもそも日本人は自らが動いて何かを手にしたという経験(集団としての)が
少なすぎるのではないのか、、と思ってしまう

忍耐強いのは諦めているから、、
この不安が頭に浮かぶ
自らを盲信するのもどうかと思うが、
自らの判断を放棄するのも、、どうなんだろう、、と思う昨今

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ウィルス、ブラックホール、松たか子と松嶋菜々子の区別

2020年08月01日 08時21分42秒 | 徒然なるままに

4時30分台だった日の出もいつの間にか5時台になっている
しばらく長雨で歩けていないので、久しぶりの早朝ウォーキングが
新鮮な気持ちになれる
太陽も気持ち南に傾いている
少し前、帰ってくるころは朝日に向かって歩け、、という状態だったが
今は太陽はそこまで高く上がっていない

意識の流れ、、というのが近代小説にはあるのだそうだが
歩きながら様々なことが頭に浮かんだ
それはまるで夢のように脈絡がない

(コロナ)ウィルスはRNAとタンパク質の殻があるだけで
自らは増殖はせず、他生物の細胞を利用して増殖すると聞いているが
ウィルスが死ぬとか生きているというのは、どういうことなんだろう
そもそも生きているとか生物とはどういう定義なんだろうか
生物は「時間の矢」を確かに自覚しているかのような行動をする
彼らは時間の認識をしているのか(そんなはずはあるまい)
生きてると生きていないの区別ってのはなんだろう、、

そんなことを頭に思い浮かべていると、背中越しの太陽が
進行方向に自分の長い影を作った
下半身の部分が異様に伸びている
まるでブラックホールに吸い込まれる場面のようだな!
と、少し前に読んだブラックホール絡みの解説を思い出した

意識は勝手にあちこちと飛んでいく
昨日のチコちゃんの、
「歳をとるとなぜ若者の顔の区別がつかなくなるか」
てのは面白かったな
「外国人の顔の見分けがつかないのと同じ状態になっている」
というのが答えで、脳の記憶する場所が普段接している人は記憶場所の中心部、
あまり会わない人は周辺部にあるので、記憶に直ぐ様連絡できず
ついついそうなっている、、とのこと
老人は若い人と接することが少ないので、、めったに会うことのない外国人の
見分けがつかないのと同じ状態になっているとのこと
確かに、外国人の顔の見分けは難しい
映画で主人公以外の配役の顔の見分けがつかない
(マクベスを見た時、誰が誰だかわからなくて困った)

でも待てよ、女の人の顔の見分けはできる(?)
以前、同居人が、松たか子と松嶋菜々子の二人は似ていて
つい間違えてしまう、、と言っていたのを思い出した
自分はそんなことはない、簡単に見分けられると思っていたが
ある時別の女性が、あの二人は間違えてしまう、、と言ってので
女性同士では見分けがつきにくいのだろうか、、、と
思ってしまった
男は女性を区別する必要性があるので、知らず知らず細かな違いも
認識できているのだろうか、、、
女性は着ている服やアクセサリーに関心はいっても、
男のような関心の持ち方はしないのだろうな、、、、

これらが合っていくるどうかは気にならない
ただ勝手に頭に浮かんだこと
朝の涼しい時間、足音を聞きながら思い浮かべたこと

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