パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

説明責任(住民監査請求の)

2020年08月20日 06時05分46秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

おそらく新城市民の大半の方が知らないこと
関係者である市においても関係部署でない職員は知らないこと

約2ヶ月前に市民グループは住民監査請求を提出した
内容は、新城・名古屋直行バスの実証実験時の契約、及び決算に
少しばかり疑わしいところがあるので調べてほしいというものだ

疑わしい点とは、予定価格と見積価格がまるっきり同価格で
談合があったのではないのか、、という点
もう一つは、経費の中に償却費の内容で、委託仕様書には
減価償却費を運行経費の1つとして掲げているが、
初年度に使用したバスは減価償却期間を過ぎていたにもかかわらず
220万円もの支払いを行っているのは、説明のつかないことで
きちんと調べて、市に損失があった場合は委託会社にその分を
請求してほしいというものだ

この監査請求の結果は市のホームページに出ている
それによると、まず予定価格と見積価格が一致している点については
委託会社である豊鉄バスから参考見積を取り、それをそのまま予定価格
としているとある
豊鉄バスに参考見積をとったのは、現実的にこの路線で営業運転を
行える条件にかなうのは豊鉄バスしかないので、そこで依頼したとのことだ
しかし、法的にも現実世界的にも豊鉄バスしかないとしても
金額の妥当性(正当性)はどこで担保されたのかは、不明だ
発注側の市はバスの経営、費用などの知識はない
出された金額が高いのかやすいのかわからない
そんな中、豊鉄バスの言い分を100%信じて予定価格とした判断は
果たして正しかったのか

もう一つの疑い
減価償却が終わっている車の減価償却費を支払ったのではないか
という点については、回答書には
「償却費として市に請求したのではなく、平成28年3月24日に締結した業務委託契約に基づき、
通常必要な運行経費を請求したものである。これは、新城名古屋間高速バス運行に係る業務委託料として、
本車両の故障や事故等があった場合に対応する予備車両を含めた償却費を運行経費に積算したものである」

と説明している
ところが回答書のある部分において
「委託仕様書の第7条第2項第5号において、減価償却費を運行経費の一つとして掲げていることを確認した」
とある

この2つの記述(相違)はどう解釈したら良いのだろうか
回答書は、償却費は減価償却費ではなく予備車両等の整備等の経費のことと説明している
でも、減価償却費を運行経費の一つとして掲げていることを確認したともある
どのように考えたら良いのだろうか

そもそも減価償却ということば自体が市の会計にそぐわない言葉で
一般的な企業会計なら当たり前の概念でも、公会計では使われない
にもかかわらず、「減価償却」という言葉が委託仕様書に使われている
市から自発的に「減価償却」という言葉を使うことは無いと思われるので
おそらく委託会社の方から何らかの意味で出されたものと想像される
ただし、その意図や意味を正確に理解していたかどうかはわからないが

今回の監査請求の回答は実は監査委員の方が請求者の要望により
直に対面して回答の説明や質問に答える形となっていた
監査委員の変更があって、今回の方が真摯に向かい合って
説明に取り組んだものと思われる
だが、正直なところ、減価償却のところの説明は何度聞いても
すんなりと、ストンと理解できるものではなかった
(理解しようとする気がない?)

そこで気になるのが監査請求をいったいそれをどのように調査したのだろうか?
という点だが、回答書を見ると、全て庁内での聞き取り調査のようだ
市民側とすれば豊鉄バスに聞かない限りわからないところがあるので
なんらかの形で豊鉄バスに調査を行うことを期待したが
それは果たされなかったようだ

そうなってくると、一旦市が下した判断を覆すなどということは
現実的に考えづらいものとなる

少し視点が変わるが今回の問題は、このような疑問に市民が監査請求をしたという点もある
普通であればこのような疑問は行政のチェック機関である議会が
なんらかのかたちで追求しているべき問題が
議会は契約書・決算書をみても何ら疑問を感じず、まるでスルーしている

市民グループが各種書類を情報開示で手に入れると、直ぐさま疑問を感じた部分を
同じ資料を見ても議員さんは問題と感じていない
同じ資料を見ても、それに向かう姿勢で見えてくるものは違う
疑って見ると全ては疑う対象になる
疑っていないと、それらは単なる文字や数字の羅列に過ぎなくなる
なんでも疑って見るというのは人として問題かもしれないが
それは役割としてそのような態度で向かわねばならないのが議員
議員がきちんとやっておいてくれたら、今回の監査請求自体が起きなかった
と思えてならない

再び、監査請求の回答に戻るが、監査委員の人格等は真摯で
市民の求める回答とは違うとはいえ、悪い印象を持つものではなかった
しかし、問題の回答に対する説明は、、どうしても
そうか、勘違いしていたのか、、とか
それは仕方ないな、、と
思えるような気持ちになれるものではなかった

ここ数年で何回か続く住民監査請求だが、今回は市民側が一方的に決めつけて
市は間違っているから市が損した金額を返すように要求せよ!
といった高圧的なものではなく、疑わしい点があるのできちんと調べて
調べた結果金額的な損失が認められるならば、返却をするように働きかけてほしい
が監査請求の措置依頼となっている
そしてこれらの疑いが勘違いであるならば、
きちんと納得のいく説明がほしいというものだ

説明責任という言葉が頭に浮かぶ
それは説明を一通りしたとかする、、ことではない
聞き手、受け手が納得できる事ができて、はじめて説明責任は果たされたと言える

ただ聞き手・受け手の頑なな態度の可能性もないではないが、
それでも多く人がすんなりと理解できる説明であったかどうかは、、、
客観的にどうなんだろう
(しかし、市民の大半の人は知らないので、市民の請求自体を理解できていないかもしれない〉


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天気予報通り!

2020年08月19日 06時17分29秒 | 徒然なるままに

天気予報では、暑さの質が今日から変わると言っていた
今までのカラッとしたものから、
南からの風の湿気の多いムシムシしたものになると

まさにその通り、爽やかな朝のはずがいきなり蒸し暑い
庭の水やりをしてるだけで背中に汗が滲んでくる
腕もどこかしらネバネバしてるような

家の中でもそれは変わらない
始末屋のエライ人に聞いて
仕方ないね、、
の一言をもらって、エアコンをつけることにした

今月の電気代は、、、仕方ないな

夏の暑さ、水やりをしていると木々もダメージを受けているのがわかる
ヤマボウシもアズキナシもトサミズキもハシバミも
みんな猛烈な直射日光の攻撃で葉っぱにシミのようなものができている
葉っぱはそうなることによって自らの身体を守ることにしているのかもしれない

以前は朽ちた(シミのような)葉は気になる対象ではなかった
しかし、今はお疲れ様!とかご苦労さま!と声をかけたくなる
生きてきただけで、価値があったのだ、、と彼らに伝えたいような気分で
そしてそれは自分にも言い聞かせているのだろう

それにしても、蒸し暑い!

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市民グループと市議会議員の意見交換会

2020年08月17日 09時44分15秒 | 市政、市議会に関することなど

暑い二階から逃げて、ノートパソコンを下に持ち込んで
日課のボケ防止の投稿にトライ

ああ言えばこう言う!
というのはいたるところで見られる
一番最近の例では、市内の会場で市民の一部とある市議会議員たち
との意見交換会が行われたときに、それが見られた

この意見交換会は、行政訴訟ともう一つ別のテーマが話題となった
まずは行政訴訟について、
政務活動費の使途について疑問を覚えた市民グループが宿泊費の返還を求めて行政訴訟を起こした
ところが訴訟の終盤になって対象議員の6名が急遽宿泊費を返却したために裁判上の
争点がなくなって、原告側の市民が訴訟の取り下げを行う羽目になってしまった
急に梯子を外された形の市民グループは、議員のその判断の説明を聞くために
以前から質問状を通じて公開の意見交換会を要望していたのが実現されたというわけだ

市議会はここ最近問題が多く、この他にも議員さんに伺いたい質問(疑問)があって
東三河広域連合議員の選出についても2、3の質問が出てきた

会場の雰囲気は、議員さんを責める空気が多かったのは間違いがないが
その中で自分が確認したのは以下のことだ
対象議員は行政訴訟の現実的な被告は市長ではなく、自分たちであることを自覚していた
だから弁護士費用を市から支払ってもらっていること負い目を感じていた
訴訟が長引けば市からの弁護士に支払う金額は多くなる
そこで、更なる弁護士費用の追加を避けるためと、自らの議員活動に専念するために
宿泊費の返却をした、、、というのが彼らの説明だった

ところが、訴訟の途中経過を詳しく知っている人の説明によると、
現実はそのようなきれいごとではなくて、このまま訴訟を続けても議員側に
勝ち目はないのが裁判長などの発言から明らかになりつつあったらしい

訴訟を続けて負けとするか、宿泊費を返却して争点をなくすか
どちらが得か、、、を考えると、返却することで争点なしにするのは
潔いかどうかは別にして考えられないことではない

人は残念ながらみんな正直であるとは限らない
ときどき、損得を考える
そしてその時の説明がつじつまが合っているように話す

説明と言い訳、、
受け手の立場で同じことを言われても感じ方は全然違う
議員さんにとっては説明だったが、市民グループの中には言い訳にしか
聞こえなかったのは仕方のないことだ

これをさらに、正直に話せ!と追及しても感情的な諍いが
起きるだけなので、自分は以前から気になっていた弁護士費用ことを聞いてみた

説明からすると対象議員は弁護士費用を市から支払ってもらっていることに
負い目を感じているようだ
ならば合法的に、あるいは市民の声で弁護士費用の支払いを求められたら
どのように考えるか、、
すると4人のうち3人は、そういう方法があれば考えるとの答え
一人は(一般質問を全然しない問題の多い議員は)被告は市長なので
払う気はないと答えた
この事実は大きい
一人の開き直った姿勢、
そして何らかの方法があれば支払うことも考えるとする姿勢(これがホントかどうかは別として)

市民側は合法的な弁護士費用の回収方法を考えなければならないが
議員さんもなにか考えるのだろうか(ふるさと納税とか、、、)

ところで、冒頭の「ああ言えばこう言う」の話は、訴訟から離れて
話題が広域連合の議員選出になったときに出てきた

東三河区域連合の代表議員は新城市から3人選出されているが
そのうちの二人は行政訴訟の対象者であり、
新城市の代表として送り出すには問題が多いというので、
全員協議会で長い時間をかけてその対応が話し合われた
とくに今年度は輪番で新城市の議員が議長をすることになっている

そこで全員協議会で煮詰まった総意は、今年度の広域連合の輪番の議長職は
新城市は辞退するというものだった
そして現実として新城市議会議長と議会事務局は広域連合に赴き、その旨を伝えた
だが、困るのは広域連合で、新城市の都合だけでスケジュールの変更を
強いられるのは混乱が生じるので、新城市は新城市の議員の中で解決してほしい
との結論をだした

ここからが問題で、新城市はそれを素直に受け取って、
なおかつ全員協議会の総意を反映するような選択をすればよかったのだが
何故か全員協議会の総意は全く反映されない形となった
つまり行政訴訟の対象者が議長に立候補し、同じく行政訴訟の対象者が
立候補者を推薦し、なんら問題のない議員は「今回は自分が、、」
と積極的に出たが無視された形となった

この経緯について聞いた時だ
全員協議会の総意と違っている選択をしているが、、
すると出てきたのが
「全員協議会は何かを決めるところではないので、、、」
という言葉

自分は傍聴していたが全員協議会は長い時間をかけてこの問題を話し合った
そして何かを決めないにしても、総意はお互いに理解し合った、、(と思った)
ところが、今回のこの言葉だ

法的には全員協議会は何かを決める場所ではないとしても、
そこで話し合われたことについては従う、、、というのが
常識的な人のあり様だと思うが、ルール違反をしていないので
従わなくても問題はない、、と言い切ってしまう議員さん
はたして彼の今後の行動は信用できるものだろうか、、

新城市で行われたことのある住民投票
一般的に住民投票の結果は拘束力はない
だがその結果を重く受け止めねばならないとされているので
その後の判断になんらか反映される
ところが、「拘束力ははないので聞きません」
と言ってしまったら、更なる混乱は必至だと思われる
今回の発言はそのようなものに当たらないか

社会の中のルールは性善説を前提にしている部分も少なくない
普通ならこうするだろう、、、
を前提として、あえて文章に書きこまない
でもその不備を狙って、書いていないからしてもいいのだ
とするならば、ましてそれが議員という立場の人がするとするならば
いったい、それは好ましい社会なんだろうか

ところで、今日は4時から住民監査請求の結果が渡されることになってる
結果は予想がつくが、ストンと腑に落ちる説明があればいいのだが、、

 

 

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熱帯夜

2020年08月16日 05時10分11秒 | 徒然なるままに

枕草子では夏は夜が趣があるとされている
満月もいいが、新月のころホタルが1つ2つ飛び交うのは
風情があるというのだ
子供の頃、姉が捕まえたホタルを家に放って
点滅しながら飛んでいたのをまるで夢の中の出来事
のように思い出す
源氏物語の「蛍」の帖も、子供の頃のこのシーンを思い出した

だが現実は、エライことになっている
夏は夜などとのんきに構えてられない
寝るのに苦労する
年齢のせいもあるが、夜のテレビ番組はバカバカしくて
見る気もしない(本当にあれで視聴率が上がると信じ切っているのか?)
早寝早起きが習慣になって、時間が来ると床につく
だが、暑い、、
節約家の偉い人のせいだけではなく、我が家は窓を開けていると
それなりに風は入ってくる、
しかし、最近吹き込んでくる風は生ぬるい
体表の温度を風が気化熱を奪う、、といった機能はあるかもしれないが
残念ながら涼しいには程遠い
でもエアコンをつけるほどでもない、、我慢ができる範囲だ

一度目が覚めたのは12時頃だった(9時には床に入った)
玄関に面する戸を開けて、少しでも涼しくさせようとする
すると戸を開けただけで、空気が動き出すような感覚を覚える
それに満足し、水を飲んで寝ることにしたら
知らないうちに眠っていた

朝目覚めると、なんでもメモ魔の偉い人が
目覚めた時に室内温度をいつものように告げた
その数字は今年一番高いものだった
昨日の昼はあんなだったから、さもありなん、、というところ

今日もあのバカ暑さが続くのだろうか
そうなると夜も当然熱帯夜、、ということに
この分では「夜が怖い」ということになってしまうかも
エアコンをつければいが良いのもしれないが



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腰痛

2020年08月15日 07時09分25秒 | 徒然なるままに

持病のある人は新型コロナは危険だそうだ
時々、噴火する持病が腰痛
普段からいまいち冴えないが、ある時大噴火をして
にっちもさっちもいかなくなる
そういう時は開き直っておとなしくしているしかない

二三日前からその兆しはあった
顔を洗っていたときなど、ビクッと腰の骨がずれてるような感覚
そろそろ来るか、、
期待はしないが、覚悟はしていた

昨日の昼頃から急に腰が大噴火したときのように痛くなった
体は自然とくの字のようになる
幸い(?)いつもよりは痛みは少ない

腰痛との付き合いは高校時代から
サッカー練習中に縦に走った姿勢を思いっきり左に捻って
センタリングしようとしたが、その軸足が草に滑って腰に妙な負荷がかかった
その時からだ、腰も膝も粘りがなくなってきたのは

それにしても、地震と余震のようにやってくる腰痛
今の季節はコルセットなどとてもつけられない
仕方ない、一通りの過程(余震)を経るしかないのかもしれない
庭の水やり、掃除機がけ、二階の納戸に提灯の収納など
知らず知らず腰を使う仕事は待っている
早く落ち着きますように、、、

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「自由からの逃走」再読?

2020年08月14日 07時45分38秒 | 

今朝も涼しいうちにチャチャッと済ませておこう
ステイホームが求められ、会う人が少なくなると
どうしても話題が少なくなる
必然的にネタがなくなって、同じパターン(話題)の繰り返しになる
もっともそれが個性なのかもしれないが

またもや本の話題
夏は暑くてたまらん!
と何をするのも面倒で、やる気が起きないが、今年の夏は何故か面倒くさい本を読んでいる
こんな時期だから手軽な本を読めばいいと思うが、軽いものだとなんだか物足りないというか
刺激が足りなくて、ついつい難解な本に向かっている

最初は付箋のついたところだけを抜き出して読むつもりだった
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」


だが思いのほか次々と関心のある部分が続いて、とうとう読み返してしまった
ところが、読み返して少しショックだった
以前読んだ時と印象が全然違うのだ
いったい自分は何を読んできたのか、、と落ち込みそうなくらい違う

本は結局は印象に残る部分部分の集合でしかないし
その結果としての全体の印象となるのだし
人には読むべきタイミングがあるにせよ
結果的に何も知っていなかったんだ、、
と再確認するのはちょいとばかり悲しい

ヨーロッパ人の知識人は結局のところ、ルターやカルビン、マックス・ウェーバーや
ドストエフスキー、マルクス、キエルケゴール、ニーチェなどの思想が
ベースになって出来上がっていることに改めて気がつく

他の知識人の本を読んで上記の人の思想はよく出てくるので
今回はすんなり抵抗感もなく、知っている話題として受け入れられた

「自由からの逃走」は「自由から」というのがミソで、「自由への」ではない
近代人の自我が確立されるような時代変化(経済的変化)の後
「人はなんでも自由だが、そのかわり全責任は自分にある」
とされてしまった世の中で、拠り所を失った人間はどうしたら
正気を保てるか、、に視点をあわせて考察しているが
この本はフロムが心理学者なので心理学的要素が多いのは当然としても
読んでいて最後の方は「教養小説」ではないのか、、と思えるような部分が
いくつかあった

つまり、この本は感じやすい内面的な人間に対する応援歌的な要素のある
作品と思えたのだった
この捉え方は、今回読んだ時に感じたことで、また別の機会に読めば
全然違う印象を持つだろう
何故ドイツ人はナチをあんなにも容易に受け入れてしまったのか、、
命令に従うことは、自らの自由の放棄ではないのか、、、とした
考察こそがこの本の本質だろうが、今回はその部分ではなくて
少しばかり自分のようなタイプの人間は、今の自分のままで良いのだ
と感じさせるようなところがあったので、、そこが何よりも印象に残ったのだった

最後に今回付箋を付けた部分の紹介

もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば
かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれは外界とは構成された一つの全体の
部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての
疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも
自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消滅する。
かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、
それは生きる行為そのものであることをみとめる。

この部分、なんか嬉しかったな
リルケの「ドゥイノの悲歌」の「一度だけ、、、、」にも通じるような気もした


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暑いっ!

2020年08月13日 07時35分26秒 | 徒然なるままに

ボケ防止のためのこのブログ投稿も、パソコンのある二階はエアコンが無いので
朝の涼しいうちにチャチャッと済ませるしかない
それでも温度計を見ると30度は超えている
暑いと頭が働かない、、という実感はある

チャチャッと済まそうと思ったがネタがない
それであれこれ思い出してみた
そういえば、、最近、トンボをよく見るようになった
今朝のウォーキング中も見かけた
少し前はカエルの道の横断や死骸、干からびたミミズ
蝉の死骸もポツポツ目に入るようになった
バッタも目に入るようになった

庭ではムラサキシキブも自己主張の準備をしている
家の偉い人が文句をいうススキも遠慮なしに伸びている
水やりをしていると、少し前剪定してもらった時に抜いてもらった下草が
最近の太陽の力を借りてえらい勢いで伸びている
この伸びた草の下で秋の虫が休めているのだろうか
水やりをしてると、葉っぱの裏に隠れていた蝶が驚いたように飛び立つ
自然はすごいな、、、と、意味もなく感心する

さあ、チャチャッと済ませたら次は「おしょろさま」のお迎えの準備
納戸にしまっておいた提灯を出して、、、

そろそろ偉い人の「やるよっ!」声が聞こえそう

それにしても、暑いっ!

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有名でない曲(ブルックナーの二番の交響曲)

2020年08月12日 08時32分51秒 | 音楽

クラシック音楽は少しばかり距離をおいた表現で
「高尚な音楽」と言われることが多い
でも、少なくとも自分がそれを楽しんでいるのは
「高尚」だからではない
単純に心地よいからだ

クラシック音楽というと、あだ名が付いた曲、例えば運命とか田園とか
未完成とかが挙げられて、それを口にするだけで悪い意味で一歩引かれてしまう

ところで、このあだ名のついた曲とついていない曲について
商業ベースではあだ名が付いていたほうがセールスしやすいと思われるが
個人的にはあだ名が付いていない曲でも絶対外せない曲がある

一番嫌いなクラシック音楽の作曲家のアンケートをとると
断トツなのがブルックナーだったとの報告がある
3Bはバッハ・ベートーヴェン・ブルックナー(ブラームスではなくて)と
思い込んでいる自分からすると、とても信じられない結果だ
あまりあれこれ考えずに、ブルックナーの音響に浸っていると
訳もなく心地良く、ある人はブルックナーは音を浴びて味わうのが良い
といっていた

そのブルックナーの音楽で比較的有名なのが4番の「ロナンティック」だが
自分はあまり有名でない2番の交響曲が好きだ
特に最初の2つの楽章はレコード・CDを繰り返し聴いている
1楽章は何故かモーツァルトの「プラハ」を連想するし
2楽章はブルックナーの生まれ育ったオーストリアの田園地帯を
思い浮かべることができる
そしてそれは意志的な意図のある音楽というよりは、
自然の声のようでまるで野原に座ってぼーっとしている心地になる

この2番への愛着は、どうも一般的ではないらしく
録音され発売されたレコード・CDも多くない

でも、好きなんだな、、、
人がどう評価しようが、、この音楽は好きだ
(いつか世間評価が変わるような気がする)




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光源氏の親としての気持ち

2020年08月11日 08時09分25秒 | あれこれ考えること

去年のマイブームは源氏物語だった
若菜の巻では光源氏はしっぺ返しを食らったな、、とか
宇治十帖はトレンディドラマみたいだな、、とか
部分的にしか覚えていないが、今でも読んで良かったと思う

部分的に印象に残っていることの一つが、光源氏が親として息子に下した判断だ
光源氏は息子の夕霧には身分を四位を与えるのではなく、その下の六位のとどめた
その理由が、自らの宮中育ちの世間知らずと、勉学の必要性を踏まえた上での
以下の言葉だ(21帖「乙女」与謝野晶子の現代語訳から)

「貴族の子に生まれまして、官職が想いのままに進んでまいり、
自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を
苦しめたりすることはきっとばかばかしいと思われるでしょう。
遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずん上がるようなことが
ありましても、家に権勢のある間は、心で嘲笑はしながらも追従をして
苦言を人が損ねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれで立派に見えましょうが
家の権力が失墜するとか、保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑されましても
なんらみずからたのむことのないみじめな者になります。やはり学問が第一でございます。
日本魂をいかに活かせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。
ただ今目前に六位しか持たないものを見まして、たよりない気はいたしましても、
将来の国家の柱石たる教養を受けておきます方が、死後までも私の安心できることかと存じます。」

やっぱり人の親なんだなとか、この光源氏の判断は適切だなと実感するが
つい連想するのは、現在の日本の中で、家業を政治家として
行っている坊っちゃんたちの仕事ぶりのこと
彼らの親は子どもにわざわざ苦労させるようなことはさせたか
最初からエリートコースの道を歩くようにさせていなかったか
そして子どもたちは、自分のおかれた立場を謙虚に考えることが出来たか

源氏物語を無理やりこのような読み方をする必要はないが、
紫式部もなにか感ずることがあって、このような文章を残したのかもしれないとも思う
光源氏の行動は現代人のモラルからすると、とんでもないやつ、、となるが
彼の趣味・センスはちょいと羨ましいかもしれない


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「服従の心理」(スタンレー・ミルグラム)を読んで

2020年08月10日 07時49分24秒 | 

興味はそそられるが、えげつない実験との印象が残るのが
「アイヒマン実験」の名前がつくスタンレー・ミルグラムの実験
アイヒマンは与えられた命令を実行しただけ、、
と自らの責任はないもの訴えている
ベトナム戦争時のアメリカのある軍隊の人間は、上官に命令されて
数多くの人の命を奪った
命令されることに対して人はどのように従ってしまうのか、、
を実験というかたちで、一つ一つ人間の犯してしまいそうな行動を
明らかにしているのが、この実験の報告書「服従心理」スタンレー・ミルグラム著だ

命令されることに対して、それに従う要因を伝統的・カリスマ的・法的支配としたのは
マックス・ウェーバーだが、この実験は、何故、命令に従ってしまうのかと
哲学的あるいは社会学的に追求するするよりは、人には総じてこのような行動を
とってしまい勝ちといった例がこれでもか!と思われるほど列挙される

答えを間違った人に電気ショックを与えるように命令された人の行動を見るといった
えげつない実験だが、実験の正当性とか正確性、その解釈の妥当性を確保するために
あらゆる可能性を配慮して実験は行われる
その幅広い分野に及ぶ仮定とそれを確かめる過程は、科学(実験)とはこういうものだ
との認識を再確認するようなものだった

この実験は、実験する前に想像したような結果、つまり人が直感的にそうだろうな
と想像するような結果に落ち着いている
例えば命令する人が、立場の上の人が命令した場合と、同等とか下の人が命令した場合は
明らかに上の人の命令を聞いている
人に電気ショックを与えるサド的な行為なので、命令とはいえそれを躊躇する人も出てくる
命令する人が見ていない(ショックを受けた人を)場合は、人は電気ショックの程度を低くしたままとか、
電気ショックを受けた人の呻く声が聞こえる場合と聞こえない場合の違いとか
電気ショックを与えるボタンを自分が押す場合と人に押させる場合との違い
それらが明らかにされる

人は命令によって動く
特に現代のような社会化された世界では、命令によって動くことは効率的でもある
だが、その命令が真に正しいものかどうか、、は個人の正義感や倫理観では
もはやカバーしきれないほどになっている
(時に人道的な人の存在がいて、それで安心するのも事実だが)

一見(サピエンス全史で明らかにされたように)人類は少しづつ試行錯誤をしながら
暮らしやすい制度・心理を身に付けてきたが、人の中にはまだまだ解決できないような
心の闇のようなものが存在する
そういったものを、改めて実感させられた気がする

命令が人を傷つけるとか、命を奪う、、といった極端なものではなく
ごくありふれた業務上の命令を想定した時、命令はおそらく個人の正義感とか
倫理観以上の何かの力で作用するだろうな、、、と思うのが最近の実感
特に公務員の方々の仕事は、、、

与えられた仕事と、それに対する個人の正義感とか倫理観とは
折り合いをつけるのはなかなか難しいと言える
あの森友事件で自死された赤城さんのように

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