goo blog サービス終了のお知らせ 

パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

植物はなぜ薬を作るのか

2023年04月21日 09時12分24秒 | 

今年に入ってからのマイブームは植物の不思議
先日読んだのは「植物はなぜ薬を作るのか」齊藤和希著

確かに植物由来の薬は多いし、それは人間にはとても役に立つ
しかし、植物は人間に役立とうとして薬の成分を作っている訳ではない
(と繰り返しこの本では説いている)

何気なく認識している時間という存在は、考えてみるととても不思議なものだが
時間はエントロピーの増大する方向とか、生き物が生きながらえる方向に
進んでいき後戻りはしないものだと認識する

生きているということは、単細胞でもそれを維持し仲間を増やす方向に
活動し、それこそが生き物の定義とさえ思えてくる
(時間の存在というものは生きているという実態がないと意味をなさないとさえ思う)

自らが生き延びるためにいろんな方法を植物は講じている
それは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の世界の出来事で
突然変異というかDNAのコピーミスでたまたま条件が良いものが
とてつもなく長い時間をかけて今に至っている

人間の分析的な能力が、植物の各個体の工夫を役立つものを選別し
単独に取り出して、あるいは似た化合物を作ったりしている

この本では個々に薬としての成分が、化学式とか構造が図で紹介されている
何でもそうだが、この道にハマった人は日々感じられる植物の生き様の
たくましさとか不思議に、ますます心を奪われるものと想像できる

自分ももっと若くて時間があったなら、この分野を追求してみたいとも思う
と同時に、生き方の問題として、人間中心の世界観だけで生きていって
良いものだろうか、、とも考えさせられる

生き物は必ずしも相手を慮って協力して生きているのではなくて
それぞれの生き物がデタラメに試行錯誤した結果(突然変異を繰り返した結果)
たまたま上手くいった生き方として共存という生き方をしているのが現実のようだ

植物や微生物の生き方を知って、人の生き方にどのように影響するかは
薬として役立つか否かだけではない、どこか感情を伴った判断基準が生まれてくる

残念ながらために唸る本を読んでも、読んでいく端から忘れていくという現実があるが
それでも不思議を感じ、驚きを覚える力は失いたくないものだ



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変な夢を見るもんだ

2023年04月20日 18時54分51秒 | 徒然なるままに

「昨日夢を見た
 夢の中にゾンビが出てきた」
と話しかけてきたのは三年生になったAちゃん
(変な夢だな、なんでゾンビなんだろう)

それを聞いて
「私の夢に中には宇宙人が出てきた」
「どんな宇宙人?」
「触角があって、、、」
と答えたのは一年生になったばかりのAちゃん
(やっぱりこの子も変な夢だ)

木曜日のルーティン、近所の小学生との校門までのウォークングで
かわされた楽しいおしゃべりの一コマ

「僕なんか見ないようにしている」
口を挟んだのは4年制の忘れ物の多いH君
「H君には聞いてないよ」
一年違いでもAちゃんは男の子を叱る
これは最近良く見られる光景だ

こうしたすぐに忘れられていく時間(瞬間)が
とても心を和やかにしてくれる
ボランティアで彼らのために行っているのではなくて
実は自分の心の健康のために行っているとつくづく思う

月曜日と木曜日はこのボランティアがあるので
曜日感覚はどうにか保たれている




 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シニア無料のサッカーチケット

2023年04月19日 09時27分49秒 | 徒然なるままに

年齢を重ねると少しは良いことがある
映画や施設の入場料が割安になる
ありがたいが、どこか複雑な思いがあるのも事実だ

メールにシニアの方無料招待の言葉が入ったものがあった
4月と5月のJリーグの一試合にタダで入れるというのだ
最近、生での試合には行っていないのでチャンスは逃さないことにした

サイトに入って試合を選択する
5月3日のグランパス対ヴィッセル神戸の試合を
イニエスタ出場を願いながら選んだ

チケット代が無料でも手続きにはお金が若干かかる
今回はセブンイレブン経由で受け取るようにしたので
発券とシステム使用のため計330円がかかる

豊田スタジアムに行くには、車で国府駅まで出かけ
そこから名鉄に乗って知立経由で豊田市駅まで行く
そこからはザワザワした雰囲気を感じながらスタジアムまで歩く

電車賃は国府駅から豊田市までが950円(トイカが使える)
往復で1,900円
駐車場料金は最近使ってないのでわからないが多分700円

最低でも2600円はかかる
これに何か食べるものがあるので4,000円くらいの出費になりそう

毎日、スマホの家計簿アプリにこまめに入力しているので
お金の使い方がケチになっている
この分だと、サッカーを見に行っても出費は抑え気味になると予想する

それにしても人が外出するということは、お金を使うということだ!と実感する
今年はラ・フォル・ジュルネはパスしているので
たまにはこのくらいの外出で気分転換をしないと、精神的にもよくないかもしれない

さ、もう少ししたらセブンイレブンにいってチケットを手に入れよう
席はおまかせだが、これは仕方ない
当日は天気がいいと良いのだが




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不満があっても、数字に反映されないのは何故だろう

2023年04月18日 09時42分32秒 | あれこれ考えること

行動経済学の視点からすれば、人間は必ずしも合理的な判断や
行動をするとは限らないとされている
政治とか経済は再現性がないので科学ではないという人もいる

科学でさえ(物理分野の)2つの物体の運動の関係は
なんとか計算で求められるが、これが3つの関係となると
一気に複雑さが増して求められないようだ
現実世界では3つのうちの一つが非常に小さい場合は
無視して(ゼロとして)近似値を算出するらしい

人間社会の複雑さは物理のそれを軽くオーバーしている
その例として、いつも不思議に思うのは内閣支持率だ
定期的に行われる内閣支持率調査は、決まりきった質問項目の他に
その時々の旬の話題も絡めて行われる

最近では、ある調査によれば
少子化対策「改善しない」80% 
国民負担「支持しない」58%
防衛増税「支持しない」55%
とある

どちらかといえば内閣に否定的な数字が高い
ところがこの数字は支持率に反映されず、支持率は上昇している

尤も、この傾向は今回に限ったことではなく
森友・加計学園のときも政府の説明に納得できない
とする数字が多かったにもかかわらず、支持率はさほど低下することはなかった

つまり失策と言われるモノがあっても、人々はそれに対して部分的に反対はしても
トータルな視点では考えようとしないで、現状維持を選んでしまうかのようだ
それはまるで支持率と、今抱えている問題とは無関係!
と人々が捉えているかのようだ

この傾向は日本独自のものなのか
それとも世界的にもそうしたものはあるのかわからない
(どうも日本的傾向らしいが)

コロナ対策では諸外国は政権の支持率は軒並み上がったが
日本ではアップしなかったのは不思議な傾向と捉えた人がいた

支持率は相対的なもので、比べる対象の野党が情けないなら
消去法として仕方なく現状維持を望む心理が働いて
支持率のキープができているのかもしれない

でも、それでもやはり不満があるのにそれが反映されない支持率は
不思議だという思いは消えない

話は飛ぶが、チャットGPTでの答えは不正確なものも混じっているから
それを割り引いてとか、こまめに調査する必要があるとされている
つまり人は楽な方法を経由しての情報把握は案外当てにならないということで
大学入学試験の方法も論文記述ではなくて面接で、肌で感じるポテンシャルとか
人間性を掴むことが現実的との対策も考えられているようだ

先日行われた県会議員選挙も、新聞に掲載された立候補者のプロフィールとか
マニフェストを読んだだけでは、みんな良いことが書かれているので
誰が優れているかは区別がつかなかった(少なくとも自分は)

そこで、肌感覚としての人物像を得るために公開政策討論会に出かけて
直接感じられるものを確かめた
すると新聞を読んだだけではわからないある種の実感を得ることができた
(それなりの年齢の人には人格や生き方が顔に現れる)

人が手にする情報はプッシュ型の勝手にやってくるものが多く
それは都合よく脚色されてしまっている(意図的か偶然かわからないとしても)
人が支持率を判断する材料はそれらが多く、結局支持率にも反映してしまう

人は必ずしも合理的な行動をするわけではないが
それでも何らかの合理的な考え方をするほうが
(今回の場合は不満と支持率がリンクするほうが
 人に与えられた知性とか理性とか道徳心とかの最強の道具を使うこととなり)
良い結果を導き出せそうな気がする

支持率の数字に対する不満は、数字自体にあるのではなくて
人がその総合的な力を自ら発揮せずに放棄しているような
気がしてならないことだ
(不満の数字と支持率は相関関係にあるはずと思いたい)

ということで、まとまらない話

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登った分は降りなければならない

2023年04月17日 09時37分57秒 | 徒然なるままに

ずっと前の山に登っていた頃
下山した翌日は脚の筋肉痛で階段を降りるのは一苦労だった
筋肉を酷使するのは登りではなくて、むしろ降りの方らしい
心肺機能には楽でも、下りは知らず識らず脚に負荷を与えて
立ち止まっていると膝が笑うというかブルブル震えるのだった

下りは苦手だった
特に大きな岩の多い落差の大きな道は、登りにはよくても降るには
歩きにくくてイライラが募るのだった
今でも覚えているのは白馬からの下山、白馬大池から栂池まで降るコース
天狗原と名付けられたところを降る時はこのイライラで精神的に参ってしまった
同様に奥穂、前穂と回って岳沢に降りる道も下りにくい道で
これは登る方の道に使うべきだったと反省をしたのだった

そして降る時、いつも思うのは登った分は降りなければならない
という当たり前の事実の重さだった
身体は降りはさほどしんどくない
だが気持ちが登るときほど高揚していないのでやたら長く感じてしまう
(実際の時間は短いが長く感じてしまうということ)

急にこんなことを思い出したのは女性登山系Youtuberかほさんの挑戦した
南米最高峰のアコンカグアの登山の動画を見たからだ
この人は難なく登山をしてしまうスーパーな人ではなくて
むしろ言い訳を考えてしまって「しんどい」とか「辛い」という本音が
出てくるので、とてもリアリティがある
蝶ヶ岳を長塀山経由で登った動画を見た時も、退屈な長い登りに
心が折れそう、、とこぼしていたのが、そのコースを歩いたことのある自分は
とても親しみを覚えた
(彼女の山の経験は初期の頃だったせいもあっただろうが)

このアコンカグアの動画を見ている時も
登った分は降りなくればならないのは辛いだろうな
と思いながら見ていた

行ける時に行ったほうが良い
というのは年齢を重ねたおっさんの実感だが
彼女はこれを実践している
国内の山からヨーロッパ、アフリカ、南アメリカの高い山に挑戦している
だが安全なガイド付きのパックで(と言っても体力的にいろいろ大変そうだが)
ちょいと山好きの人なら可能のものだ

今は絶対行けない場所なので、動画を見て行った気分に浸るしかない
高い山の空気の薄さに苦労したり、そこから来る頭の痛さとか眠気とか
猛烈な寒さとかは、画面から想像するしかないが、それを体験している彼女を
羨ましくも思う

ということで、今日はこのYoutuberの紹介(かほの登山日記)
【アコンカグア最終回】高山病と体力の限界で歩けない…!?迫るタイムリミット!!登頂なるか??

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誰々がこう言った」という形の報道には注意が必要

2023年04月16日 09時42分21秒 | あれこれ考えること

また気分の悪い事件が起きた
和歌山県に選挙の応援演説にでかけた岸田さんを狙って
爆発物が投げられた事件がそれで、昨年奈良で起きた
安倍さん銃殺事件を連想させる

あのような事件は誘発されてしまうのは、無意識の行動で
ある程度の確率で起きてしまうのだろうか
昔、岡田有希子が飛び降り自殺した時も後に続く人が絶えなかった
社会に蔓延する不思議な空気は、ストレスとなって
人に奇妙な行動を強いるのかもしれない(と勝手に想像した)

今は新しい戦前と口にする人がいる
どこか重苦しい気分を感じているからで
現在のWBC絡みの馬鹿騒ぎも、その反動としての現れかもしれない

人々の気分に大きく影響するのはメディアで、各媒体は中立公平
を標榜するものの現実はアメリカの様にどちらかに分かれつつあるようだ
フジテレビなどは、もはや開き直って極端に偏ったコメンテーターの人選を
しているように思えてしまう(個人的な感想だが)

今朝の中日新聞の「視座」に目加田説子氏の投稿があった
アメリカのトランプさんの起訴があり、彼は一旦裁判所に立った後
地元に戻り記者会見をしたのだが(いつもより短くて20分というやつだ)
それをテレビ局は「放送しない」と判断した局があることを紹介していた
その理由は、トランプさんの演説はニュースと考えていないからだとしている
彼の発言は嘘も言いっぱなしのデマも存在していることが多いため
事実と異なることを報道することはためらわれるということらしい

このコラムにはおまけがあって、実はそちらの方が興味があったのだが
トランプさんが負けた選挙の時トランプさん側は、不正選挙だと言って
投票機メーカーのドミニオンを名指しで攻撃した
(その他にも票が盗まれたという様々な怪しい動画が当時は流れた)
この時、トランプさん寄りのFOXニュースは
報道の自由と言論の自由は憲法で保証されている権利で
表操作があるとしたトランプさんの主張は報道する権利があるとしていた

だがドミニオンはこのデマに対して裁判を起こした
表操作などしていないという訴えで、結果はドミニオン側の訴えを認めることとなった
ここで問題となるのは「FOXの一部のスタッフはトランプさんの嘘の主張を支持している」
と明らかになったことだ

これは日本でもよく目られる「彼はこう言った」という形に関わる報道の問題で
言ったのは事実だから、その公言した内容を確かめることなく報道しているが
これは実は許されないことではないかとの指摘だ

実はこれほど大きな話ではないが、自分も「市長がこう言った」
というパターンの新聞記事で困ったことがあった
それは新庁舎の規模のことで、住民投票までなった市民の関心事で
住民投票では規模縮小を望む人が多く、結果的に縮小することになった

規模縮小を訴えた側と行政は具体的な案を検討する実務協議を数回開いた
訴えた側は消化不良を覚えながら予定された回数の実務協議は終了した
その後、急に出てきたのが「市民案は無理」とのタイトルの新聞記事だった
これこそが「市長はこう言った」というタイプの記事で
無理かどうかは客観的な事実ではなく、単に市長がそう考えたに過ぎないのだ

実務協議では素人同士の話に終止するより、その場に設計業者を呼んで
解決法を提案してもらったらどうかとする提案は受け入れられなかった

このように、誰々がこう言った  というパターンの記事は
受け取る側はよく考えないと、間違った情報を受け入れてしまうことになる
メディアの紙面に載るとか電波で放送されるということは
その内容が美化されるから、本当に気をつけなければならない









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞き違いの原因は、、

2023年04月15日 14時52分00秒 | あれこれ考えること

昔、武田鉄矢氏が井上陽水氏あるいは小椋佳氏の歌う「白い一日」
を聞いて、随分変な歌だな、、と思ったことがあったそうだ
(ラジオで聞いた話だが)

「真っ白な掃除機を眺めては飽きもせず
 かと言って触れもせず、そんな風に君の周りで
   僕の一日が過ぎていく」

この歌詞にある掃除機を眺めながら過ごすなんて
どういう変わった人なのだろうか
自分には絶対できないことだ!と感じたのだそうだ

「白い一日」を知っている人は彼が「陶磁器を掃除機」と
聞き違いしていることに気づいて笑い話になってしまう

でもちょいと笑えないかもしれない、、と思えるのは
数年前読んだブルデューの「ディスタンクシオン」では
学歴、経済的な階層によって身の回りにある家具が違い
生活の中で培った感じ方も違ってくる
という例が、いくつも紹介されていて、
これもその一つの表れかもしれないと思えたからだ

何の違和感もなく陶磁器と聞こえる人と掃除機と勘違いしてしまう人
それは耳の聴き取り能力の違いではなく、お互いの置かれている
生活環境が違うせいからではないのか、、と類推してしまった

自分が子供の頃おかしな歌だな!
と思ったものに「故郷」(ふるさと)がある
「うさぎおいしかのやま こぶなつりしかのかわ」
うさぎが美味しいなんて、、食べてしまっているのかな、、
変だなと思いながらそのままだったが、何年後には
うさぎを追いかける意味の「うさぎ追いし」
とわかるようになって、やっとスッキリした気分になれた

子供の時は知識がないから、おいしは生活に密着する
「美味しい」を直ぐに思い浮かべたが
古い言い回しを覚えたら「追いし」が想像できるように
なったということだ

物事に対する感受性とか好き嫌いは、個性の現れというよりは
身の回りの環境に大きく左右されているのではないのか
と、この例を思うと考えてしまう

この例を拡大解釈し大きく構えて、政権与党を無条件に信頼する人と
批判的な意識をもって眺める人の違いを考えてみると
これらも実はその周りの環境によって違っているのではないか
と思ってしまう

多数の意見を重要視する人、あるいは平均を自己の価値基準とする人
がいる一方で、どうしても生まれてしまう弱者に目がいってしまう人がいる
どちらが正しいか!は追求されることはなく
形として出てくるのは数の多い方になってしまう
(そして環境が作られていく)

陶磁器を掃除機と勘違いする人の方が多い社会と
すんなりと陶磁器と聞き取れる社会
いったいどちらの社会のほうが幸せなのだろう、、
とちょいと考えてしまった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性的な迫力

2023年04月14日 09時24分21秒 | あれこれ考えること

何かで心に引っかる和歌を耳にした

「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」

意味はすぐにはわからなかったが、どこか迫力がある
作者は和泉式部で百人一首の中にあったらしいが
全部は覚えていないので、すぐには思い浮かばなかった

ただこんな歌を詠まれたら、男は困るな、、と想像した
こんな感情の深い女性は魅力的に違いないと錯覚し
振り回されてしまうかもしれない、、と思えたのだった
(実際に和泉式部に振り回された男は多かったらしい)

これと同じ様によくわからないが、とにかく迫力を感じる歌に
こんなのがある
これも百人一首の中の一つで

「ながからむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ」

意味はよくわからなくても「黒髪の乱れて、、」というところが
色っぽい感じで迫力があることは感じられる
この歌は待賢門院堀河の作でやはり女性の詠んだものだ

イスラムの一部の国と違って、日本は昔から女性に教育を受けさせない
ということはなくて、むしろそれなりの教育を与えていたようだ
平安時代の結婚には、男が女のもとに通うためには歌を読むことが必要で
それに応える女性もそれなりの歌の技術が必要とされた

優雅なのんびりしたものと思いきや、案外現実的な判断材料としての
歌であったような気もする
つまり、和歌の技術やその背景への教養は、歌う本人のポテンシャルを
測るのに役立っていると思えたのだ(男も女も)
何かを感じたり技法的に工夫する力は、現実の世界でも役立つ知恵と
なるに違いないと連想することもできる
これを想像させる本に「世界のリーダーはなぜ美意識を鍛えるのか」
というのがあり、判断に困ることの多い現代では、美意識による判断は
馬鹿にできないとするものだった

確かに、百人一首のおえらいさんの歌は、それなりの人間的な総量を
感じ取ることができる

ただ、男と女の違いについては、感覚的にやはり違うと思われる

話は飛ぶが、音楽の世界でも個人的な感覚だが女っぽいと感じる人がいる
クラシックの演奏家では、自分はピアニストのアルゲリッチにそれを感じてしまう
すごい迫力でバリバリ弾くけれど、その演奏する本人の人間性が
男とは違うなにかに支配されている、、と思えてしまうのだ

もう少し分かりやすいポップス音楽では、中島みゆきとか竹内まりあの音楽は
アルバムを通して聴くと、自分にとってはしんどくなってくる
それは自分にとっては、女性の部分が感じられすぎて、、違和感を感じるためで
この感覚はアルゲリッチの場合とよく似てる

ということで、これらは何の客観性もない個人的な感覚に過ぎないが
迫力のある女性的なものは、それが多く続くと
しんどくなってしまうということ

※女性がブルックナーの音楽を受け付けないような気持ちは
 これらと反対の力が働いているような気がしてしまう
(単なる思い込みだが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ポール・マッカートニー作曲術」

2023年04月13日 09時36分24秒 | ポール・マッカートニー

紹介される曲を「そうそう!」とうなずきながら一気読みしたのが
ポール・マッカートニー作曲術(野口義修著)

この作曲術シリーズはジョン・レノンもあるが、ポール好きの自分としては
何をおいてもここから始めなければ!といった気分だ

ここで紹介される曲の殆どは知っている
だが、その秘密とされる部分(コード進行とか転調)の技術的なところは
残念ながら頭の中で音がするというレベルにはない
だが、分かったことは耳で感じる快適さの裏には
いろんな仕掛けがあったということで、選択する和音の感覚などは
やはり天才的なセンスがあったということに落ち着きそうだ

追いたてられるように読んだあと
本で紹介された効果的な部分がどこなのか!
と思いながらCDを引っ張り出した

ポールは専門的な音楽教育を受けていたわけでななかったが
父が職業音楽家の音楽がいつも身近にある家庭で
子供の頃聞いていた音楽(和音感覚)が後々まで影響を与えていたらしい

この本で一番残念だったのは、コード進行の理屈が音響として頭に浮かんで
理解できていないことで、とても悔しい思いをしたことだ
だが、指摘された部分は曲のどの部分かは直ぐに分かったから
感覚としては追いつけてはいると自分を慰めた

彼の有名な「イエスタデイ」は夢の中で作った曲で
起きたあと周りの人に歌って聞かせて、既にある曲かどうかを尋ねたが
誰もが初めて耳にする音楽で、完全に彼のオリジナルであったという
エピソードが残っているが、この本の著者はこのエピソードから
一つの興味深い話を生み出している

それは「レット・イット・ビー」は「イエスタデイ」
とセットで考えられる曲という解釈で、音楽的要素はもちろんだが
レット・イット・ビーの歌詞に
「I wake up to the sound of music Mother Mary comes to me」
のがあって、ここに登場する「音楽で目を覚ます」の音楽が実は
「イエスタデイ」ではなかったか、、というのだ

なかなか面白い仮定で、クラシックの音楽家が過去の自分の音楽を
再使用する例がしばしば見られるので
ポールの場合も「それはありかも!」と納得してしまった

ところで「レット・イット・ビー」に登場するメアリーは
ポールのお母さんの解釈もあるが、イエスの母の「マリア」でもあるらしい
ヨーロッパはキリスト教の世界で名前でもキリスト教絡みは多い
ジョン・レノンのジョンは「ヨハネ」
そしてポールは「パウロ」から来ているらしい

この本は途中からでも気楽に読めるから
手元に置いて、音楽を聴くように読み直してみよう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出だしが肝心

2023年04月12日 09時04分29秒 | 徒然なるままに

何事も出だしが肝心だ
音楽ならベートーヴェンの「運命」はあの有名な出だしから始まる
ビートルズの音楽も出だしに気を使っていて「ヘルプ」
「ア・ハード・デイズ・ナイト」「シー・ラブズ・ユー」
「ヘイ・ジュード」その他にも、すぐさま思いつくものが色々ある

(小説やエッセイなどの)文章はどうなんだろう!と振り返ってみると
「枕草子」や「徒然草」「奥の細道」も印象的な始まりだ

書店では立ち読みは、まずは最初の文章を読む
それが自分のリズムとか感性とか気分にあっているかどうかが
購入するか否かの判断となる
(ベストセラーかどうかはあまり気にしない)

最初の文で読もうと決めたのは北杜夫の「幽霊」
ヘッセの「郷愁」もそうだ
(この2つ似た雰囲気があると思うのは自分だけなんだろうか)
有名な川端康成の「雪国」や「伊豆の踊り子」の冒頭は
自分には合わなかった
ヘッセと同時代の小説家のトーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」も
波長が合わなかった

翻訳されたものにも関わらず気に入った詩人は「ウンベルト・サバ」
トリエステ出身の詩人だ
実は隣町の田舎にトリエステ出身の女性が夫婦で雑貨屋を営んでいて
一度「トリエステの風景はサバの詩の様か?」と聞いたことがあった

それにしても音楽も文章も、たった数秒の世界で波長が合うとか
合わないとか判断できるというのは不思議なことだ
この判断というのは、何が基準になっているのだろう

割合多くの人が冒頭の瞬間で同じような思い(印象)を持つとか
イメージを喚起させられるのは
その冒頭の瞬間のもっている力の強さなのだろうが
それに反応するのは、進化論のような確率的な偶然によるものではなさそう
(と勝手に思っりする)

ということで、ボケ防止のためのここの投稿も
実は出だしに少し気を使っているということ
(でも合わない人は合わないだろうし、それは仕方ない)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする