行動経済学の視点からすれば、人間は必ずしも合理的な判断や
行動をするとは限らないとされている
政治とか経済は再現性がないので科学ではないという人もいる
科学でさえ(物理分野の)2つの物体の運動の関係は
なんとか計算で求められるが、これが3つの関係となると
一気に複雑さが増して求められないようだ
現実世界では3つのうちの一つが非常に小さい場合は
無視して(ゼロとして)近似値を算出するらしい
人間社会の複雑さは物理のそれを軽くオーバーしている
その例として、いつも不思議に思うのは内閣支持率だ
定期的に行われる内閣支持率調査は、決まりきった質問項目の他に
その時々の旬の話題も絡めて行われる
最近では、ある調査によれば
少子化対策「改善しない」80%
国民負担「支持しない」58%
防衛増税「支持しない」55%
とある
どちらかといえば内閣に否定的な数字が高い
ところがこの数字は支持率に反映されず、支持率は上昇している
尤も、この傾向は今回に限ったことではなく
森友・加計学園のときも政府の説明に納得できない
とする数字が多かったにもかかわらず、支持率はさほど低下することはなかった
つまり失策と言われるモノがあっても、人々はそれに対して部分的に反対はしても
トータルな視点では考えようとしないで、現状維持を選んでしまうかのようだ
それはまるで支持率と、今抱えている問題とは無関係!
と人々が捉えているかのようだ
この傾向は日本独自のものなのか
それとも世界的にもそうしたものはあるのかわからない
(どうも日本的傾向らしいが)
コロナ対策では諸外国は政権の支持率は軒並み上がったが
日本ではアップしなかったのは不思議な傾向と捉えた人がいた
支持率は相対的なもので、比べる対象の野党が情けないなら
消去法として仕方なく現状維持を望む心理が働いて
支持率のキープができているのかもしれない
でも、それでもやはり不満があるのにそれが反映されない支持率は
不思議だという思いは消えない
話は飛ぶが、チャットGPTでの答えは不正確なものも混じっているから
それを割り引いてとか、こまめに調査する必要があるとされている
つまり人は楽な方法を経由しての情報把握は案外当てにならないということで
大学入学試験の方法も論文記述ではなくて面接で、肌で感じるポテンシャルとか
人間性を掴むことが現実的との対策も考えられているようだ
先日行われた県会議員選挙も、新聞に掲載された立候補者のプロフィールとか
マニフェストを読んだだけでは、みんな良いことが書かれているので
誰が優れているかは区別がつかなかった(少なくとも自分は)
そこで、肌感覚としての人物像を得るために公開政策討論会に出かけて
直接感じられるものを確かめた
すると新聞を読んだだけではわからないある種の実感を得ることができた
(それなりの年齢の人には人格や生き方が顔に現れる)
人が手にする情報はプッシュ型の勝手にやってくるものが多く
それは都合よく脚色されてしまっている(意図的か偶然かわからないとしても)
人が支持率を判断する材料はそれらが多く、結局支持率にも反映してしまう
人は必ずしも合理的な行動をするわけではないが
それでも何らかの合理的な考え方をするほうが
(今回の場合は不満と支持率がリンクするほうが
人に与えられた知性とか理性とか道徳心とかの最強の道具を使うこととなり)
良い結果を導き出せそうな気がする
支持率の数字に対する不満は、数字自体にあるのではなくて
人がその総合的な力を自ら発揮せずに放棄しているような
気がしてならないことだ
(不満の数字と支持率は相関関係にあるはずと思いたい)
ということで、まとまらない話